「俺っちのウェディング」を40年ぶりに観る

ピンク映画出身の根岸吉太郎が監督した「俺っちのウェディング」(

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1982 )は、オリジナル作品である。時任三郎が演じる長崎出身の若者が、宮崎美子と結婚式をあげようとしていたら、ウェディングドレスを着て顔を隠した女が、いきなり宮崎美子を刺し、鞄に入れた爆弾で自爆してしまう。

 時任に捨てられた女の意趣返しだろうと警察も世間も見たが、時任は、そんな女の覚えがないと言いつつ、実はあった。という話で、「舞踏会の手帖」男版のようでもあるが実際に何人も訪ね歩くわけではない。それに、いくら自爆したって何の手がかりもなくなってしまうということは考えられないのでここは作りごとだ。

 40年前、二十歳のころにテレビで観て面白かった気がしたが、DVDが出ていないからVHSを入手して観たら、意外に面白かった。なるほど「女のくせに」みたいなセリフが今では浮いていて良くないが、宮崎美子が、苦しむ時任を支えて頑張るところがよくて、佳作だと思った。

高橋睦郎と黒田杏子と大石悦子

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詩人・高橋睦郎(1938- 、芸術院会員・文化功労者)が、KADOKAWAの『俳句』の、俳人・黒田杏子の追悼文で書いたことで黒田の家族らがKADOKAWAに抗議し、編集長と高橋が謝罪したというが、別に事実でないことを書いて謝罪したのではなく、事実を書いたことを謝罪したのである。

 私は現物を読んだのだが、高橋が書いたのは、黒田の俳句は、有名人との交友を俳句に織り込むことが多くなってあまり俳句は良くなくなっていたということ(瀬戸内寂聴とか)、同世代で、やはり最近死去した大物俳人・大石悦子に会うと言ったら黒田が、「あんな馬鹿女、会わなくていいわよ」と放言したが、会ってみたら全然馬鹿女ではなく聡明な人だったといったことである。

 報道記事で気になったのは、大石が別に馬鹿女ではなかった、と高橋が書いていることがいつも抜けていたことで、報道だけ読んだ人が、大石は馬鹿女なのかな、と思ったらまずいだろうと私は思った。しかしある人は、何だか三角関係みたいだと言っていた。

小谷野敦

シャーロット・ギルマン「フェミニジア 女だけのユートピア」

シャーロット・ギルマン(1869-1935)は、米国の作家・女性運動家で、「フェミニジア」とされているのは原題を「ハーランド」といい、1915年、第一次大戦中の作である。

 1981年に翻訳されているが、訳者の三輪妙子(1950- )は、ヴァンクーヴァーで二人の子供を自宅で自然分娩し、帰国後は母の助けを借りて子育てしてきた、反原発、反捕鯨のかなり怖い感じの人で、訳文も「男」に対して「女性」であって、男性差別主義的なところが見える。

 作品は、テリー、ジェフ、ヴァンディックという三人の男が、どうやら南米らしいところを探検して、二千年前から女だけで生きている「ハーランド」に入り込むというユートピア小説である。その成り立ちは、二千年前に病気のため男が死に絶えてしまったが、一人の女がグランドマザーとなって単性生殖で女子五人を生み、さらにそれぞれが五人ずつ生みして、女だけで生殖するようになったという。

 この国には犯罪がないが、というのは、そのような傾向をもつ成員が発見されると、子供を産まないようにコントロールするからだという。また途中で人口が増え過ぎた時は、人口調節のため子供の出産を抑制したという。要するに優生学と強制的産児制限で成り立っているので、あまり知られていないのはそのせいだろう。

 ところでこの三人の男は、この国の娘とそれぞれ恋仲になるのだが、彼女らはセックスというものを知らないので拒み、テリーは無理やり妻を強姦しようとして、元の世界へ送り返されることになり、三人は妻たちともとの世界へ帰るという結末になっている。

 ところで私は十年以上前にさる劇団の演劇を観たあとのトークショーに参加させられたことがあり、その時誰かが「だって夫婦はセックスしないでしょう」と言ったから、「夫婦ってセックスしないんですか」と訊いたら誰も答えなかったということがあった。

 まあ、男女平等が進行すると、夫婦のセックスは困難になる。結婚して三年くらいがいいところか、十年もしたらしなくなるのが普通だろう。独身を通している人は知らないかもしれないが。

 

中野重治「四方の眺め」に呆れる

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中野重治という作家は、私が高校生の時に死んだが、プロレタリア文学の作家ながら言葉について厳格な人で、世間が総理大臣のことを「総理」と呼ぶのはおかしい、それは文部大臣を「文部」と呼ぶようなものだと言っていた。当時私はなるほど、と思って感心していたのだが、のちに、韓国や中共では「国務院総理」ということを知って、あまりあてにならないなと思った。

 『四方の眺め』(新潮社、1970)は、1961年に書かれた随筆の集成だが、これを読んで呆れてしまった。当時、佐藤春夫吉川英治が一緒に文化勲章を貰ったのだが、中野は、通俗作家である吉川が佐藤と一緒に褒賞に与ることを「節度がない」として批判しているのである。何のことはない、大衆作家へのれっきとした差別である。当時平野謙は、それまで文学賞に恵まれなかった吉川が菊池寛賞をもらい、涙ながらのスピーチをしたことを書いて中野を掣肘したものだが、ほかにも、パステルナーク事件について芳賀檀の文章を批判しているが、これは内容については、日本ペンクラブ松岡洋子の専横がいけないのは明らかなので、ケチがつけにくいから文章にケチをつけたというところか。あるいは「台湾」とか「中華民国」とかいちいちカギカッコをつけて中共に媚びを売っているが、私は中野重治というのはこんな左翼根性にまみれた人だったかと呆れたものだが、当時はこういう知識人が多かったらしい。

博士号について

日本の人文系の博士号について、ちょっと説明しておく。夏目漱石の博士号辞退などを想起する人もいるようだが、あれは漱石が博士論文を書いたわけではなく、文部省が一方的に授与しようとした名誉称号だから、今言っている博士号とはまったく別のものである。

 1990年ころまで、大学の人文系の学者には、博士号をとるという習慣がなく、学者は教えていればいいという風潮があった。しかも、国文学や国史学なら日本でとってもいいが、英米、フランスやドイツの文学を専攻するなら、現地でとらなければ本物ではないという意識があった。だがそれは当時は極めて困難なことで、東大で初めてフランスで博士号をとったのが福井芳男、二番目が蓮實重彦ではなかったか。平川祐弘などはヨーロッパに五年いたが、博士号はとれず、日本でとった。比較文学で平川、亀井、小堀が博士号を早くにとったのは、新しい学科だから業績を作って見せつけようという意図があった。平川や小堀は森鴎外だが、亀井俊介ホイットマンだから、それで日本で博士号をとるのは異例のことだった。

 1990年ころから、やはり教授は博士号をとっておくべきだと文部省から圧力をかけられて、大学院生がぼちぼちとりはじめるのだが、英文学ではそのころ、アメリカや英国でとってくる人も多かったが、仏文学の月村辰雄のように、留学したことがなく、ために博士号なしで東大教授を務めあげる人もいた。東大独文科では、柴田翔池内紀をはじめとして、博士号のない人ばかりいたし、菊池栄一は駒場の教員で博士号をとっているが本郷ではなかった。現在の准教授である山本潤(1976年生)にいたって初めて東大で博士号をとった人が東大独文の教員になっている。京大でも1976年生の川島隆がやはり京大でとっている。ドイツで博士号をとった文学研究者というのは石原あえかと1981年生の針貝真理子くらいか。

 ロシヤ文学となると、本国ソ連・ロシヤで博士号を取ったという話は聞いたことがなく、とった人でも日本でとった人ばかりで、下手に日本でとると出世できないとぼやく人もいる。沼野充義亀山郁夫もとっていない。とったのは小椋彩、秋草俊一郎など若い人が主である。まあブラックな話をすると、教授が博士号を持っていない場合、博士号をとった弟子は嫉妬されて出世できないということもなくはないので、わざととらない人もいるような気がする(個人の感想です)。

平野謙「新刊時評(下)」を読む

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 面白そうな本が出てきたら図書館で借りて読みという具合で平野謙「新刊時評」上下を読んだが、下巻は1960年代から72年に大江の「みずからわが涙・・・」の「誤読書評」で書評の筆を折るまでと、75年の『中野重治批判』と共産党関係の本の書評まであった。下巻はすでに読んだ本が多かったので上巻ほど面白くなかったが、その分、平野が何を面白がっているのか不明なものもあった。たとえば丸谷才一の『たつた一人の反乱』を、ほめているようなんだがどこがポイントなのか分からず、私にはちっとも面白くなかったので、モヤモヤした。

 大江作品誤読の顛末は上巻巻末に書いてあるが、ここで平野は、大江が、書評をしたのは自分だと知って「抗議」してきたことに、いささかのショックを受けて書評をやめたのだなと思った。平野は、「東京大学新聞」という目立たない場所に載った大江の「奇妙な仕事」を「毎日新聞」の文藝時評で取り上げて広く知らしめた産婆役である。72年当時、大江との間に距離ができたことを、平野は感じ取っていたのだろう。

小谷野敦

有馬頼義と二・二六事件

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作家・有馬頼義華族で政治家の有馬頼寧の息子だが、1967年2月25日の「朝日新聞」に「二・二六事件と私」を載せて、同事件は革命ではなく単なる人殺しだと述べた。これに対して河野司が3月5日の同紙で「二・二六事件の意味 有馬頼義氏に反論する」を載せ、「前提に思想があった」などと書いた。河野は、事件首謀者の一人の家族である。

 これは当時、糸魚川浩(利根川裕、1927-(存命)の『宴』という二・二六事件を扱った小説がベストセラーになっており、事件の美化を憂えた有馬が書いたもので、私は有馬に賛同するが、ここから有馬は『二・二六暗殺の目撃者』(読売新聞社、1970)を上梓することになる。有馬は「二・二六事件」と呼ぶのも不快だというので「二・二六暗殺」としたのである。

 実は有馬は、中央公論社の編集者だった澤地久枝(1930- )と愛人関係にあり、それが発覚して澤地は同社を退職し、五味川純平の手伝いをしながら文筆修行をし、1972年2月に『妻たちの二・二六事件』(中央公論社)を書いてデビューしたのである(存命)。私にはこれは「美化」のほうに見えるのだが、その4月に川端康成が自殺し、川端とは「睡眠薬中毒」の仲間だった有馬は、ショックを受けて自殺未遂事件を起こしている。しかしこの経緯を考えると、元恋人の澤地に裏切られたという気持ちもあったのではないか。なお有馬は『早稲田文学』の編集に携わっており、立松和平のデビューを後押しした人であり、立松の私小説的な『蜜月』が映画化された際、老人の作家が、佐藤浩市の演じる青年作家志望者に「君の、なかなかいいよ」と言っているのは有馬ではないかと思う。有馬の『二・二六暗殺の目撃者』は1997年に恒文社から新装版が出ており、これには立松が解説を寄せているが、恒文社を経営していたのは工藤美代子の父の池田恒雄で、思想的にはむしろ右寄りの人であった。

小谷野敦