夏目漱石と厨川白村

 『アステイオン』に張競さんが厨川白村の伝記を連載している。これはミネルヴァ日本評伝選で予告されていたから、それになるのか、よそから出るのかは知らない。昨年の6月ころ、ふと読んでみたら、漱石が主宰する朝日文芸欄に白村が寄稿するので、漱石から白村へ「朝日文芸欄へのご同情」を謝するという手紙が引かれていた。ところが張さんは、これまで白村は朝日文芸欄に寄稿していないから漱石の勘違いだろうと書いている。だがこの手紙の一か月後に寄稿しているから、それについての漱石のお礼だろうとメールしたのだが、張さんの独特の思考で、同情という言葉の意味から言ってそれはない、と言い、半分くらい折れたのだが、両論併記したいと言っていた。途中で紅野謙介の説ですね、と張さんは言ったのだが、それは私は知らない。普通に考えて、今後寄稿するのでお礼した、というだけのことなのだが・・・。

小谷野敦

幕見席(2)

 学校の図書館でもせっせと歌舞伎の本を借りてきて読んでいたのだが、すぐに「壁」にぶち当たった。「忠臣蔵」といえば、「歌舞伎の独参湯」とか言われているのに、元は「人形浄瑠璃」だと書いてあるのだ。ど、どういうこと!? と女子中学生の頭は混乱した。調べていくと、「義経千本桜」も「菅原伝授手習鑑」も「夏祭浪花鑑」もみんな「元は人形浄瑠璃」だというのだ。ええっ、じゃあ歌舞伎はどこに? と思ったら、四代目鶴屋南北とか、河竹黙阿弥というのは歌舞伎の作者で、それを「狂言作者」というらしい。ええっ、それって「やるまいぞやるまいぞ」の「狂言」とは違うの? (日本の藝能では「芝居」のことを「狂言」というらしく、「やるまいぞ」は「能」についている「狂言」なので「能狂言」と言うらしい。浄瑠璃を書く人は「浄瑠璃作者」だが、歌舞伎の作者は「狂言作者」らしい)

けれど、近いうちに、円子さまが出る歌舞伎を実地に観に行かなければならないと、真佐子は覚悟していた。

 真佐子の母は、経済大学の卒業だったが、中上健次なんか読んでいた。けれど、歌舞伎について真佐子が訊いてみても、はかばかしい返事は得られなかった。「忠臣蔵」の話は知っていても、「浅野内匠頭」とか「吉良上野介」で知っていて、塩谷判官とか高師直といっても首をかしげるばかりだから、真佐子はちょっと悲しくなった。

 真佐子が住んでいるのは、埼玉県南部の、東武伊勢崎線沿線である。ちょっと都市部から出はずれると、ひろびろとした田んぼ地帯が広がっている。電車に乗れば一時間もすれば歌舞伎座へ行けるのに、時どき真佐子が思うのは、歌舞伎を観るなんてことは、祖父母の代から東京に住んでいるというような特権階級だけに許されることなんじゃないか、ということだ。

 二〇一八年の三月に、歌舞伎座で円子さまが「三社祭」という演目に、虎之助と一緒に出ることが分かり、真佐子はこれを観に行こう、と決心したが、体がぶるぶる震えた。

 「今度、歌舞伎を観に行こうと思ってるんだけど」

 と母に切り出す時は、体が細かく震えて、じっとり汗をかいていた。

 一人で東銀座の歌舞伎座へ行って、夕飯前には帰ってくるということまで伝えると、母は、

 「へえ、マーちゃんも変な趣味を持ったのねえ」

 と首をかしげて考えていたが、

 「一人? 友達と一緒じゃないの?」

 と念押しをしたから、真佐子はここが大事だと思って、汗をかきながら、同じ趣味の友達がいなくって、と言った。母はいくらかかるのか心配したが、真佐子は当日買う幕見席なら、千円前後だから、と懸命に話したが、話しながら目に涙が滲んだ。だって前もって買う席だったら、三階席でも三千円もするなんて、母は知らないだろうし知ったらびっくりしてしまうだろう、知らずにいてほしいと思ったからだ。

 真佐子自身だって、歌舞伎を実際に観に行くと、一万円以上もすることがあると知った時はショックだった。映画と違って人間が実際に演じるんだから高いのは当然なようなものだが、おそらくうちの両親は生涯に一度くらいしかそんなものを観る贅沢はできないだろう、そしてこの世にはそんな高いものをしょっちゅう観に行っている人がいるらしいということに衝撃を受けたからだ。

 夕飯どき、テレビのお笑い番組に見入っている父に、母が、「真佐子が歌舞伎を観に行きたいんですって」と話しかけると、父は上の空で「え?」とか言っていて、弟は、「歌舞伎ってどんなの?」とか言うし、真佐子は初潮が来た時みたいに恥ずかしくて自分の部屋へ駆け込みたかったが、父はどうも大して興味がないらしく、まあいいんじゃないかという許可が曖昧に出た。弟は相変わらず「ねえ。カブキってなあに」と訊いていた。

 当日真佐子は制服を着て行こうと思ったが、母から、制服フェチの男に狙われたりしたらいけないからと言われ、地味めな服装で出かけた。

(つづく)