幕見席(2)

 学校の図書館でもせっせと歌舞伎の本を借りてきて読んでいたのだが、すぐに「壁」にぶち当たった。「忠臣蔵」といえば、「歌舞伎の独参湯」とか言われているのに、元は「人形浄瑠璃」だと書いてあるのだ。ど、どういうこと!? と女子中学生の頭は混乱した。調べていくと、「義経千本桜」も「菅原伝授手習鑑」も「夏祭浪花鑑」もみんな「元は人形浄瑠璃」だというのだ。ええっ、じゃあ歌舞伎はどこに? と思ったら、四代目鶴屋南北とか、河竹黙阿弥というのは歌舞伎の作者で、それを「狂言作者」というらしい。ええっ、それって「やるまいぞやるまいぞ」の「狂言」とは違うの? (日本の藝能では「芝居」のことを「狂言」というらしく、「やるまいぞ」は「能」についている「狂言」なので「能狂言」と言うらしい。浄瑠璃を書く人は「浄瑠璃作者」だが、歌舞伎の作者は「狂言作者」らしい)

けれど、近いうちに、円子さまが出る歌舞伎を実地に観に行かなければならないと、真佐子は覚悟していた。

 真佐子の母は、経済大学の卒業だったが、中上健次なんか読んでいた。けれど、歌舞伎について真佐子が訊いてみても、はかばかしい返事は得られなかった。「忠臣蔵」の話は知っていても、「浅野内匠頭」とか「吉良上野介」で知っていて、塩谷判官とか高師直といっても首をかしげるばかりだから、真佐子はちょっと悲しくなった。

 真佐子が住んでいるのは、埼玉県南部の、東武伊勢崎線沿線である。ちょっと都市部から出はずれると、ひろびろとした田んぼ地帯が広がっている。電車に乗れば一時間もすれば歌舞伎座へ行けるのに、時どき真佐子が思うのは、歌舞伎を観るなんてことは、祖父母の代から東京に住んでいるというような特権階級だけに許されることなんじゃないか、ということだ。

 二〇一八年の三月に、歌舞伎座で円子さまが「三社祭」という演目に、虎之助と一緒に出ることが分かり、真佐子はこれを観に行こう、と決心したが、体がぶるぶる震えた。

 「今度、歌舞伎を観に行こうと思ってるんだけど」

 と母に切り出す時は、体が細かく震えて、じっとり汗をかいていた。

 一人で東銀座の歌舞伎座へ行って、夕飯前には帰ってくるということまで伝えると、母は、

 「へえ、マーちゃんも変な趣味を持ったのねえ」

 と首をかしげて考えていたが、

 「一人? 友達と一緒じゃないの?」

 と念押しをしたから、真佐子はここが大事だと思って、汗をかきながら、同じ趣味の友達がいなくって、と言った。母はいくらかかるのか心配したが、真佐子は当日買う幕見席なら、千円前後だから、と懸命に話したが、話しながら目に涙が滲んだ。だって前もって買う席だったら、三階席でも三千円もするなんて、母は知らないだろうし知ったらびっくりしてしまうだろう、知らずにいてほしいと思ったからだ。

 真佐子自身だって、歌舞伎を実際に観に行くと、一万円以上もすることがあると知った時はショックだった。映画と違って人間が実際に演じるんだから高いのは当然なようなものだが、おそらくうちの両親は生涯に一度くらいしかそんなものを観る贅沢はできないだろう、そしてこの世にはそんな高いものをしょっちゅう観に行っている人がいるらしいということに衝撃を受けたからだ。

 夕飯どき、テレビのお笑い番組に見入っている父に、母が、「真佐子が歌舞伎を観に行きたいんですって」と話しかけると、父は上の空で「え?」とか言っていて、弟は、「歌舞伎ってどんなの?」とか言うし、真佐子は初潮が来た時みたいに恥ずかしくて自分の部屋へ駆け込みたかったが、父はどうも大して興味がないらしく、まあいいんじゃないかという許可が曖昧に出た。弟は相変わらず「ねえ。カブキってなあに」と訊いていた。

 当日真佐子は制服を着て行こうと思ったが、母から、制服フェチの男に狙われたりしたらいけないからと言われ、地味めな服装で出かけた。

(つづく)

幕見席(1)

 中学三年の川波真佐子が通っている公立中学校は、ちょっと見には分からないが、真佐子の家からは少し高いところにあった。だから、学校まで歩いていると、途中でしんどくなったり、汗をかいたりする。だが、それがちょうどいい運動になっているらしかった。

 月曜日になって登校した真佐子は、同級生たちが、まるで子供のように思えてしょうがなく、土曜日が休みで良かった、と思った。

 というのは、金曜日の夜、真佐子はショッキングな体験をしたからである。NHKの特集番組で、自分と同年配の丸川円子(えんこ)という歌舞伎役者が、歌舞伎の舞台で「連獅子」という、二人で長い鬘をつけてそれを振り回すさまを見て、すっかりその「円子さま」に惚れ込んでしまったからである。

 「円子さま」は、丸川虎之助という、昔一世を風靡した歌舞伎俳優の孫だそうである。けれど、父親は歌舞伎役者ではなくて、東大を出てエリート銀行員をしていたが、三十歳で一念発起して歌舞伎の世界へ入った。そのため、虎之助の名は、前の虎之助の弟の息子が継ぐことになり、円子の父は丸川楽章という由緒ある名を名のった。けれど、幼いころからその跡継ぎとして舞台へ上っている円子は、いずれ、五代目丸川虎之助になるだろう、と思われているというのだ。

 自分と同じくらいの、その円子というちょっと変わった芸名の男の子に、真佐子は生まれて初めての恋みたいなものをしてしまったのだ。それまでにも好きになった男の子はいたけれど、そんなのは間違った思いだったと思えるほどだった。

 番組は、まだ小学生の弟は自室でゲームでもして遊んでいたけれど、父と母は何となく観ていた。けれど、真佐子は、自分が興奮していることを悟られてはいけない、と途中で思い、素知らぬふりをして、番組が終ると自分の部屋へ駈け込んで、スマホで次から次へと情報を検索した。円子さまだけじゃなく、歌舞伎全般について、歌舞伎座とか松竹のサイトを見て回ったが、途中でくらくらしてきて、新しいノートを一冊下ろして、それにメモをとりながら見て行った。

 翌日も、起きて朝食を摂るとすぐ自室にこもって「歌舞伎しらべ」を始めたのだが、ますます、これは友達にも家族にも秘密にして「ファン」をやっていかなければならない、という信念が固まっていった。何しろ歌舞伎という、江戸時代以来の伝統のある深みと厚みのある世界だから、自分がちゃんと把握していないうちに他人に土足で入ってこられるようなことにはなってほしくないからだった。

 歌舞伎役者の名跡とか屋号とか、覚えなければならないことが山積みになった。あるいは、これはちゃんと上演を観ながら覚えていくのが筋じゃあないかとも思ったのだが、そこで真佐子は妙なことに気づいた。

 YouTube に載っている歌舞伎の演目が少ないのだ。もちろん著作権があるからではあろうが、落語はないものがないというほどアップされているのに、歌舞伎は少なすぎる。それに、それなら有料レンタルとかサブスクで配信されているものが充実しているかというとそんなこともない。有料で売っているDVDもあるが、これも全体からするとだいぶ数が少ない。

 ということは、これから歌舞伎を勉強しようという者は、まるで二十世紀のように、せっせと劇場へ足を運んでちまちまちまちま十年、二十年かけて学んでいかなければならないということなんだろうか。

 真佐子の家には、ラムダというメスの柴犬がいた。昔日本で打ち上げに何度も失敗したラムダ・ロケットという、ギリシャ文字から名前をとったロケットがあって、それからとったのだが、真佐子はラミーと呼んでいた。

 日曜日に真佐子がラミーを散歩に連れて行って、近所の公園に入ったら、ベンチに七十歳くらいのおじいさんが、きっちりしたズボンにベルトを締めて座っていた。そのおじいさんが、どうもラムダと目が合ったらしく、ラムダが「くうん」と言ったから、真佐子はおじいさんの隣に座った。

 「メスの子だね」

 とおじいさんが言った。

 「そうです。ラムダっていいます」

 「昔そういうロケットがあったなあ」

 「あっ、そうなんです、そのロケットにちなんで・・・」

 おじいさんは、真佐子のほうを見て苦笑しながら、

 「でもあのロケット、いっつも打ち上げに失敗していたよ」

 「ええ・・・。でも、何度失敗してもくじけない、という精神を表して・・・」

 「それはいいねえ」

 おじいさんは嬉しそうに笑い、ラムダの頭を撫でた。

 真佐子は、いいおじいさんだと思って、思い切って、

 「あの、歌舞伎とかご覧になりますか」

 と訊いてみた。

 「ん?」

 とおじいさんは目を細めて、

 「テレビでは時々観たなあ。忠臣蔵とか・・・」

 と言って、何か思い出そうとしていたが、急に、

 「そうだ、「お富さん」という歌があるよ。もう私が子供のころにはやった歌だが・・・」

 と言い、

 「粋な黒塀、見越しのまァつに・・・」

 と歌い出した。真佐子は、

 「どんな話なんですか」

 と訊いてみたが、あまり要領は得なかった。帰宅してから「お富さん」で検索をかけたら、「與話情浮名横櫛」という歌舞伎の一部だと分かった。幸い、これは古い映像がYouTubeにあったから、それを観ることができた。

 それは

(お妾さん)――

 になった女の話だったが、歌舞伎といえば、

「芸者」

 とか

花柳界

 とか、中学生の女の子が足を踏み入れてはいけない世界であるような気もして、ぽっと顔が火照ったりしたが、本当にマズいものならNHKで放送したりしないし、歌舞伎役者が人間国宝になったりしないだろう。もっと勉強して、これはまずいと思ったら引き返せばすむことだと思った。

(つづく)