竹田出雲二代(第四回)

 翌寛保三年(一七四三)四月には、出雲の単独作として「入鹿大臣皇都諍(いるかだいじんみやこのあらそい)」が上演された。『日本書紀』に題材をとり、独裁者・蘇我入鹿を倒すために中大兄皇子が活躍する話で、入鹿の妹の花橘姫が皇子に恋し、兄を殺すよう恋人から言われるという筋で、のちの近松半二「妹背山婦女貞訓」の先行作となるものである。
 寛保四年(一七四四)は、二月に延享と改元されたが、三月に、松洛・小出雲作の「児源氏道中軍記」を上演最中に、播磨少掾が病気で途中休演し、七月二十五日、五十四歳で不帰の客となった。十一月にその追善興行が行われたが、竹本座は大きな危機に見舞われたのだ。
 並木宗輔は、宗助とも書き、青年時代は備後三原の臨済宗成就寺で修行僧をしていたという。豊竹座にいた田中千柳という作者の弟子だったらしい。豊竹座で立作者をしていたが、寛保二年に豊竹座を退いて歌舞伎作者となっていた。出雲はそれを口説いて、作者として竹本座に入れたのである。
 翌年二月、宗輔は並木千柳と名を変え、千柳、小出雲、小川半平合作で「軍法富士見西行」を書下ろし、板に載せた。木曽義仲西行の逸話を綴り合せたもので、人形遣いとして竹本座の中核にあった吉田文三郎が西行を遣ったという。
 七月には、千柳・松洛・小出雲の合作による「夏祭浪花鑑」が上演され、評判を呼んですぐに歌舞伎化され、現在でも歌舞伎の人気演目となっている。小出雲も松洛も、千柳の才能には眼をみはった。
 九月の末、将軍吉宗は嫡男の家重に将軍職を譲り、大御所となった。
 翌延享三年(一七四六)一月には、「楠昔噺」が初演されたが、これも千柳、小出雲、松洛の合作で、千柳が先導し、『太平記』から楠木正成をとりあげ、幕府方の宇都宮公綱との戦いを脚色し、万里小路藤房と八尾別当顕幸の娘・折鶴姫の悲恋をからめ、顕幸の家臣の老夫婦を出して昔話「桃太郎」にからめ、三段目が「昔噺どんぶりこ」と通称された。
 出雲は病がちで臥せっていたが、そのあと回復して、小出雲、千柳、松洛とともに「楠昔噺」の当った祝いとして天満の川筋に船を浮かべ、太夫人形遣い、三味線などみなで酒宴を催した。
 「次の狂言は何にするかや」
 と小出雲が言うと、松洛が、
 「この次は、かねてから天満宮の一代記の構想を練ってきたので、それに願いま」
 と言い、その筋立てを話した。みなそれでいいと一決し、松洛は二段、三段、四段と続けて親子の別れ場を作りたいと言い、出雲も面白がって、その場で籤を引いて場割を決めることになった。その結果、二段目の道明寺の段が松洛、三段目の桜丸切腹の段が千柳、四段目寺子屋の段が出雲と決まった、という逸話がある。
 「菅原伝授手習鑑」である。それまでの菅公もの浄瑠璃を、近松門左衛門の「天神記」を含めて下敷きとし、大きく広げたものだ。しかしこの逸話が事実かどうかは疑わしい。出雲得意の子供の身替りを書いているからだ。
 「やっぱりや」
 小出雲のつぶやきを、松洛が聞きとがめて、
 「何です?」
 と問い返した。聞いていた千柳が、
 「子供の身替りでっしゃろ」
 と言った。
 松洛は、「ああ」と納得いったようで、
 「ボンは子供の身替り嫌いでしたな」
 と言った。しかしそれが出雲の得意な筋立てなのである。千柳は、
 「わたしかて嫌いです。だから親方がおらん時は使てへん」
 と言い、
 「せやけどせっかくの親方のご恢復なんやから、小出雲さんもまあこらえて」
 「もちろん、こらえるけどな」
 しかし、八月に上演された「菅原伝授手習鑑」は大当たりとなった。特に「寺子屋」と称される子供の身替りの段が評判がよく、
 「ボン、世間は身替りの趣向、好きそうでんな」
 と松洛に言われて、小出雲は腐らざるをえなかった。
 「菅原」は続演され、その間十月には京都の浅尾元五郎座で歌舞伎化された。竹本座での上演は翌年三月まで続いたが、出雲はその間に再び病の床に就いてしまった。
 翌延享四年(一七四七)三月十七日、人形遣いの長老で、文三郎の父である吉田三郎兵衛が死去した。病床にある出雲は葬儀に出席することもできなかった。
 五月の末、出雲はいよいよ弱り、おむら、小出雲らが枕元に詰めきりになったが、六月四日、死去した。生玉の青蓮寺に葬られた。
 竹本座にとって、出雲の死はすでに織り込み済みで、小出雲が二代出雲となり座元となった。ところが、かねて座の実力者をもって任じていた人形遣いの吉田文三郎は、父三郎兵衛も死んだこととて自儘な振る舞いが見かねるほとになり、二代出雲はついに暇を出した。
 だが文三郎は近くで独自に芝居興行をしようとし、幕内からのとりなしもあって、いったんは竹本座に戻った。
そんな騒動をへて、八月には千柳、松洛、出雲作の「傾城枕軍談」が上演された。これは近松の「形成島原蛙合戦」を下敷きにした島原の乱もので、これに真柴久吉という権力者に、元の主君の小田春永の孫を擁した七草四郎が挑戦するという太閤記ものが加わっていた。しかし島原の乱を思わせるものはなく、七草四郎がのち名を島勘左衛門と変えるのが、石田三成の側近・島左近の弟なので、関ヶ原ものの趣向もあった。島勘左衛門が馬に乗ったのを文三郎が出遣いし、そのまま塀を飛び越えるという趣向もあったが、これは当らなかった。何の話だか観客にもよく分からなかったのだろう。竹本座混乱のあおりを食ったともいえる。
 二代出雲は、松洛、千柳とともに次の浄瑠璃の作成に取り掛かった。九郎判官義経が、腰越で兄頼朝に拒絶されてから、奥州平泉で討たれるまでの空白期間を描いたもので、滅びた平家の新中納言知盛、正嫡維盛が生きていたことにして、知盛が正体を見あらわされて碇を体に巻き付けて入水する「渡海屋」、維盛とその奥方、息子を守って釣瓶鮓屋のいがみの権太が改心する「鮓屋」、義経の忠臣佐藤忠信が、静御前を伴って旅をする間、静御前が持つ初音の鼓が、親狐の皮でできているため忠信に化けた子狐が忠信とすり替わり、正体がばれるが、義経が鼓を与える狐忠信の物語などを織り込み、「義経千本桜」と外題を付けた。浄瑠璃や歌舞伎の外題は、当時、三、五、七文字と奇数にすることになっていた。
 「ボン、どないだす、子供の身替り」
 「うーん」
 主な書き手である千柳に訊かれて、二代出雲は、首をひねった。
 「権太の息子が連れてかれるんやから、これは最後首切られるちゅうことやな」
 「はい。けどそこまで描かんちゅうことで」
 「こう、おとうはんの身替り好きから、ちょっと離れた、いうところかいな」
 「さようでおます」
 「ええんやないか」
 先代出雲も、身替りの趣向が古くさいという認識はあったが、観客にはやはりこれを喜ぶ者もあって、そうそう捨てられなかったのである。「義経千本桜」は当たり狂言となった。

竹田出雲二代(第三回)

 翌享保二十年(一七三五)九月には、出雲と文耕堂合作の「甲賀三郎窟物語(いわやものがたり)」が上演された。また十一月には、二代目義太夫が禁裏から上総少掾を受領した。
 翌年二月には、「赤松円心陣幕」が上演されたが、これは、文耕堂と三好松洛の合作で、上総少掾受領の祝儀演目であった。四月に年号が元文と変わり、五月には「敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)」、十月には「
猿丸太夫鹿巻筆」の新作が上演されたが、いずれも文耕堂・松洛合作で、四十代後半になる三好松洛が竹本座の重要な作者の一人となっている。
 元文二年(一七三七)、一月に二代目義太夫は播磨少掾を再受領し、義太夫節における第一人者と認められ、竹本座を支える義太夫語りの地位は揺るがぬものとなった。文耕堂と三好松洛の合作で「御所桜堀川夜討」を上演した。『平家物語』『義経記』に取材し、頼朝と仲が悪くなった義経が、土佐坊昌俊の襲撃を受ける話を元にしている。中では弁慶と女人との邂逅を描いた「弁慶上使」が今も歌舞伎でよく上演される。
 出雲は、千前軒という俳号を用いるようになり、元文三年には文耕堂との合作で「小栗判官車街道」を出した。小栗判官の伝説をもとにしたものである。息子の清定は、小出雲と名のって作者部屋に加わった。
 元文四年(一七三九)四月には、千前軒、小出雲親子に、文耕堂と松洛、浅田可啓の合作で「ひらかな盛衰記」を出した。これは『平家物語』の異本のひとつ『源平盛衰記』に取材したもので、梶原源太の恋、戦死した木曽義仲の遺児と遺臣に、初代出雲得意の子供の身替りがあり、源太の恋人・梅ヶ枝が遊女となって手水鉢をたたくと小判が降ってくる「梅が枝の手水鉢」まで、古典を自在に操って複雑怪奇な筋立てとしたいかにも義太夫狂言らしい作となった。
 武士の世界は時代物として、町人の世界は世話物としてあり、ここではその二つが縄のようにないあわされて、時代と世話が複雑にからみあう「時代世話」の世界になっている。これがのちのちまで近世藝能の基本となる構造であった。
 浄瑠璃においては、正義が悪を倒して終わりということはない。登場する人物はしばしば何ものかと何ものかの板挟みになって苦悩し、時にわが子の命を、また自分の名誉を犠牲にしてしまう。それがなぜ当時の関西の町人に受けたかということは、もちろん彼らが武士の支配する封建道徳の世界に生きていたからとも言えるし、昭和時代において恋に泣く女の歌が流行ったように、それは流行ったのだと言うこともできるだろう。
 元文六年(一七四一)、二月に寛保と改元され、五月に竹本座では文耕堂、松洛、小川半平、小出雲の合作で「新うすゆき物語」を出した。これは浮世草子のロングセラーだった恋愛物語「薄雪物語」を下敷きにしたもので、やはり歌舞伎になって今日でも上演されている。実に竹本座の黄金時代だったわけである。
 これに出雲が参加していないのは、息子の竹田近江清英がからくり上演のため江戸へ下っていたのに同行していたからである。
 しかし竹田出雲も、七十代半ばを超える高齢であり、周囲は当然のごとく、江戸下りを止めた。だが出雲は、
 「わしはもう生い先長くない身やないか、江戸ちゅうもんがどないなところか、いっぺん見て冥途の土産にしたいのや」
 と言い、周囲も、それなら途中で倒れてもよしとするか、というので送り出したのである。淀川を三十石船で上り、そこからは出雲だけが駕篭に乗り、からくりの道具は十三頭の馬に積んでの大きな行列となった。
 江戸で出雲は、歌舞伎の市川團十郎に会った。といっても、二代目團十郎はこの時には海老蔵と名乗り、三代目團十郎を息子に譲っていたから、会ったのは海老蔵のほうである。海老蔵は五十三歳になっていた。
 「このままでは浄瑠璃は歌舞伎に人気をさらわれてしまいますわ」
 そう、出雲はぼやいた。二代目團十郎は、上方浄瑠璃を積極的に上演しており、「国性爺合戦」のほか、「曽根崎心中」や「心中天網島」の主役も演じたことがあった。著作権のない時代の無断上演である。
 海老蔵は、苦笑しながら、
 「それなら、浄瑠璃も歌舞伎のいいところをつまんでいったらいかが?」
 などと返した。出雲は海老蔵に、ぜひ上方へ来て上演してくれるよう言い、海老蔵は快諾した。といっても、その年十一月から、大坂の佐渡島長五郎の芝居に招かれていたのである。
 出雲・近江父子は帰路についたが、秋になって、海老蔵團十郎の父子が上方へやってきて、大当たりをとった。ところが十二月に息子の團十郎が病に倒れ、江戸へ帰ることになり、海老蔵だけが残った。出雲は年末には海老蔵を招いて一席設け、息子を心配する海老蔵を慰めた。
  年明けの正月から、海老蔵は「雷神不動北山桜」を初演し、歌舞伎十八番の一つである「鳴神」「毛抜」をここで披露した。歌舞伎十八番の多くはこの二代目團十郎の作・初演である。二月の竹本座では、松洛・小出雲の合作による「花衣いろは縁起」が上演されていた。
 だが三月になった時、江戸で二月二十七日に三代目團十郎が二十二歳の若さで死んでしまったという知らせが届いた。海老蔵は嘆いたが、契約があるから九月までは大坂に留まらざるを得ない。出雲は、五十過ぎて養子とはいえ後継者を失った海老蔵に深い同情を寄せていた。
 七月に出雲の単独作として「男作五雁金(おとこだていつつかりがね)」が初演された。大坂で処刑された雁金文七という無頼漢と、その仲間の総勢五人を主人公とし、のちの「白浪五人男」などの原型となった浄瑠璃である。ここでは発端で江戸が舞台となっているのは、江戸を実見してきた出雲が取り入れたもので、江戸の花岡文七という男と、大坂の雁金文七という二人の文七が登場する。これも大当たりで翌年春まで続演された。
  その初演からほどない八月末、ようやく和らいだ暑さの中で、出雲が次作の構想を考えていると、松洛と小出雲が蹌踉としてやってきた。
 「何ごとや」
 と、二人の顔色を見て出雲がぞっとしながら言うと、
 「文耕堂が逐電しました」
 と言う。はっと思って話を聞くと、さらに事態は深刻であった。近江清英が江戸へ行って留守の間に、近江の妻かなは、文耕堂とわりない仲になっており、それが今になって近江の知るところとなり、近江が猛り立って女敵討ちをすると言うので、文耕堂が消えてしまったというのである。
 「で、清英は、清英はどうしている」
 「奥様も切り殺されそうになり、私らで逃がして知る辺に預けております」
 ともかく、近江を宥めなければ、と、出雲は松洛、小出雲とともに近江の宅へ出向いた。
 近江は、自宅で目を据えて酒を飲んでいた。出雲らが入っていくと、
 「清定、女房はどこへやった」
 と小出雲に怒鳴った。出雲は老体なので、怪我があってはいけないと、小出雲と松洛から近寄らないように押しとどめられた。
 それから数日ごたごたが続き、出雲は疲れ切って家で寝込んでしまった。だが九月二日、荷物を取りに戻った近江の妻が、近江に発見されて刺し殺され、近江もその場で喉笛を切って自害してしまった。
 奉行所へは届け出たが、出雲の政治力で、何ごともなかったかのようにし、記録としては近江と妻が同日に死んだことだけが残った。
  出雲は、息子夫妻の悲劇に精神的衝撃を受け、老体に鞭打って、竹田からくりの後始末に奔走し、竹田からくりは近江の弟の平助に継がせて、四代目近江とした。
 十月四日に、かつて豊竹座の立作者として近松門左衛門と覇を競った紀海音が、享保期に引退していたが、八十歳で世を去り、出雲も自分もそろそろ定命だと感じるようになった。

竹田出雲二代(第二回)

 享保十一年(一七二六)、出雲の妻が死んでいる。出雲にとってはつらい時期だった。その年は出雲は「伊勢平氏年々鑑」を書いて九月に舞台に載せている。翌年四月には「小野炭焼・深草瓮師・七小町」という変わった趣向のものを書いて上演した。草紙洗小町、通小町など小町ものの多くをないまぜにしたもので、普通は小町ものでは大伴黒主が天下を狙う悪人になるのだが、ここでは八雲王子を悪人にし、黒主はそれを妨げようとする善玉とした。出雲は概して平安時代以前の古い世界を描くことが多く、いかなる当時の芝居も浄瑠璃も、徳川時代を描くことは禁じられていたため、「忠臣蔵」のように同時代の事件でも「太平記」世界に移すとか、江戸を鎌倉時代に変えるとかしたので、出雲が特殊なわけではないが、「忠臣蔵」や「近江源氏先陣館」のような、実際は徳川時代のことがらを過去にことよせて書くこと自体少なかったのは、座元としての配慮ゆえということもあったか。
 八月には出雲作「三荘太夫五人嬢(さんしょうだゆうごにんむすめ)」が上演された。説経節の「さんせう太夫」をもとに、三荘太夫の五人の息子を娘に変え、安寿と対王の父岩城判官の御家横領を狙う弟を悪玉に、三荘大夫が途中で改心したり、対王の身代わりとなる若者が登場したりと自由に描きなおしたもので、かなりの当たりをとった。
 今日から見れば驚くべきことだが、当時は著作権の概念がなく、浄瑠璃で当たった作があればすぐ歌舞伎に取り入れられた。この作も同年のうちに京都の佐野川万菊座などで歌舞伎に組まれ、翌年には大阪でも歌舞伎にされている。
 実際の人間が演じる歌舞伎は、女形という制約はあったが、次第にそれも洗練を見せ、浄瑠璃の人気を越えつつあった。享保十一年、豊竹座では、西沢一風、並木宗助らの合作による「北条時頼記(じらいき)」が当たり、十か月の続演という盛況を見せていた。
 そのころ京都で歌舞伎を書いていた、長谷川千四という男が、竹本座へやってきた。文耕堂が見込んで推薦したものだという。奈良の寺の出身で、千四は俳号だという。享保十三(一七二八)年五月に、出雲と千四の合作で「加賀国篠原合戦」を上演した。木曽義仲に、斎藤別当実盛の話をないまぜ、フィクションを交えたものだ。出雲の単独作に比べると、時代の新しさが感じられた。
 十四年二月にも千四との合作で「尼御台由井浜出」を上演したが、これは由井正雪ものだから、同時代の事件を題材にしている。慎重な出雲は渋ったが、千四の熱意に押し切られた形になった。
 八月には、やはり千四との合作で「眉間尺象貢」を上演した。これは中国の取替え子説話に取材し、伝説の刀匠干将・莫耶夫婦とその息子眉間尺を描き、主従・親子・夫婦の苦衷を描いたものである。だが、これは当らなかった。
 その九月十九日、かねて病んでいた兄の二代竹田近江が八十一歳で死去した。あとは、養子となっている出雲の次男が三代目近江を継ぐことになったが、まだ三十代の息子の後見として、当分竹田近江芝居のほうへ移る、と出雲は言い出した。
 太夫竹本政太夫人形遣いの吉田文三郎に、長谷川千四、息子の小出雲らが、困惑した顔つきになった。
 「どれくらいでおます」
 「まあ、四、五年といったとこやろな」
 「作者が足りますか」
 「そうやな」
 まだ小出雲は表へ出せる技量ではない。出雲は、文耕堂に帰ってもらうことを考え、すでに交渉に入っていた。幸い、文耕堂は戻ってくれ、享保十五年二月に千四との合作「三浦大輔紅梅たずな(革勺)」で竹本座に復帰した。
 出雲とか近江とかいうのは、むろん国名で、出雲掾は律令制度における国司の判官(三番目の官)だが、徳川時代には、菓子や浄瑠璃などの職人にこの掾号を名誉として朝廷から与えることがあった。近江や出雲は、その名義である。
 しかし浄瑠璃作者は職人ではなく、からくり人形を作成することのほうが「掾号」の由来であり、出雲がからくり芝居を大切にするのはそのせいもある。
 文耕堂と千四の二人は、出雲不在の享保十六(一七三一)年に「鬼一法眼三略巻」、十七年九月に「壇浦兜軍記」を書いて大当たりした。ところがこのあと、竹本大和太夫人形遣いの吉田文三郎、長谷川千四の三人による脱退・独立計画が持ち上がった。大和太夫は政太夫と並ぶ義太夫語りだが、政太夫のほうが切り語りを任されるなど重用されることに不満を抱き、これに文三郎と千四が乗ったのである。しかし一座の人形遣いの長老の吉田三郎兵衛が息子の文三郎を説得したため、独立は沙汰やみになった。
 しかし十八年(一七三三)三月十二日には大和太夫が、四月二十日には長谷川千四が四十四歳で死んでしまった。独立計画の挫折による自害などの類であろうことはきわめてありそうなことだ。四月八日からは、文耕堂が単独で書いた「車還合戦桜」が上演され、藝歴の長い竹本和泉太夫が、大和太夫の代わりに入座している。だが六月三十日、近くの竹田の芝居から火が出て、竹本座は類焼してしまう。これも、出雲の手腕で手配りよく再建され、七月には近松の「重井筒容鏡」で再建興行を打っている。
 これを機会に、出雲は竹本座へ戻ることにした。享保十九年二月には、文耕堂作の「応神天皇八白幡」の上演に際して、政太夫は二代目義太夫を襲名した。出雲は十月に「蘆屋道満大内鑑」という平安時代ものを書いて作者に復帰した。これは平安時代陰陽師安倍晴明が、父・安倍保名と狐の精の間の子だという古浄瑠璃「しのだづま」を典拠とし、悪人だった芦屋道満を善人に書き換えた作品で、「葛の葉子別れ」で知られ、翌年には歌舞伎化され、今日まで人気作となっている。この時、人形を三人で遣う方式が確立された。
 「やはり、親方あっての竹本座や」
 と、座では出雲を改めて尊敬するのであった。
 「しかし、親方」
 息子の小出雲が言う。
 「これ、どないしても安倍晴明の話でっしゃろ。なんで外題が『芦屋道満』なんですやろ」
 「ほらな、お前、ちょっとしただましや」
 「だまし?」
 「そや、客は外題見て何にゃろなあ、思うて観に来るわ、すると実は安倍晴明の話やったというわけや。近松はんが『碁盤太平記』でな、あれも外題だけやと何のことやら分からんやろ、そこを楽しむねや」
 「ははあ」

竹田出雲二代(第一回)

序言
 死去した橋本治には『浄瑠璃を読もう』(新潮社)という著作がある。その中で、「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」の三大名作とされる浄瑠璃は、いずれも竹田出雲、並木千柳(のち宗輔)、三好松洛という「三人の劇作家」によって書かれた、とある。だが「竹田出雲」は、「菅原」では初代、「千本桜」と「忠臣蔵」では二代目であり、別人であるというのが現在の定説である。私は橋本がこの稿を『考える人』に連載中、この間違いに気づき、編集者に伝言を頼んだことがあったが、単行本になってもその箇所は直っていなかった。伝言が伝わらなかったのだと考えたいが、晩年の橋本には、いくつかおかしなところがあった。これはその誤りを正すため、小説の形式を借りて、竹田出雲二代を表そうとしたものである。


 享保九年(一七二四)三月二十一日、大坂は大火に見舞われた。橘通三丁目(現・大阪市西区南堀江)の金屋治兵衛の祖母妙知尼宅より出火したため、妙知焼けと呼ばれ、大坂史上でも例を見ない大火となった。船場一帯が焼けた上、火は北に向かって淀屋橋、堂島、曽根崎を焼き、さらに東へ回って天満一帯を焼いた。翌二十二日には火は島之内から、道頓堀川を越えて千日前に及んだ。
 道頓堀の南側は芝居と人形浄瑠璃の小屋が立ち並んでいた。浄瑠璃では竹本座と豊竹座、歌舞伎芝居では中の芝居・角の芝居・角丸の芝居、からくり芝居の竹田の芝居が立ち並んでいたが、みな焼けた。
 (なんてえ、ことや)
 焼け跡を歩いているのは、竹田出雲、竹本座の座主である。年は五十代半ばである。竹本座の座付き作者・近松門左衛門を押し立て、自らも浄瑠璃を書いてやってきた。この一月には近松の「関八州繋馬」を上演していた。
  京都町奉行所の与力を務めた神沢杜口の随筆『翁草』には、竹田出雲の前身は講釈師だったと書かれているが、今日この説を採用する者はない。
 その近松も今年七十二歳で病がちである。今回の火災はどうやら免れたが、精神的な傷手が大きいようだ。
 焼け残った家に退避している近松を、出雲は見舞うところだ。
 「ごめん」
 と声をかけると中へ通され、どうやら今まで寝ていたらしい近松が起き上がったばかりという様子で出雲を迎えた。顔には疲れの色が見える。
 「私ゃあ、『関八州』で書き納めかもしれまへんな」
 などと言うから、出雲は、いえぜひこんな大火から竹本座も再起したという意味合いで新しいお作を、と言う。だが出雲自身も、近松はこれぎり、という予感はしていた。
 「ああそうや、太夫元さん」
 近松が言う。
 「私の名前は、一代限りにしておくれ」
 つまり、二代目近松門左衛門は作らないでくれということである。浄瑠璃作者の地位が上がったのは近松によってであり、
 「こないなこと、私が言うのもおこがましいんやが…」
 あえて言った、ということらしい。出雲は承知の旨伝える。
 出雲の本家は竹田近江掾といい、竹田の芝居でからくり芝居をしている。出雲は初代近江の次男、二代近江の弟で、出雲の長男・清英がその養子となっている。ガマの油売りの口上にも「わが国にも人形の細工師、あまたありといえども、京都にては守随(しゅずい)、 大阪表にては 竹田縫殿助、近江大掾藤原朝臣」と言っている。出雲の次男は清定といい、のち二代出雲となる。三男の平助清宗が、四代近江と三代出雲を兼ねている。
 「作者が育ちますればよろしいのですが・・・」
 出雲が口を濁すように言うのは、近松の死を含意してしまうからである。
 「いや、あなたもたいがいいい作者におなりや」
 と近松。出雲は前年に松田和吉との合作で「大塔宮曦鎧」を書いて作者としてデビューしている。和吉はのちの文耕堂である。出雲は十年近く、近松に師事して研鑽に励んできたのだ。息子の清定も、作者になる気満々であった。
 浄瑠璃という語り物は、太夫が語り三味線が音楽をつける。中世以来のものもあるが、近松が「出世景清」を書いたあとが現代の浄瑠璃で、それ以前のものは「古浄瑠璃」と呼ばれる。全部で五段の時代ものが中心で、近松が書いた「心中天網島」などの世話浄瑠璃は三段、人気はあったがあくまで添え物の立場である。近松や豊竹座の紀海音の心中もの浄瑠璃がはやったため、心中が増えた。幕府ではこれを「相対死」と呼んで罪とし、心中ものの上演を禁じた。吉宗将軍の時代のことである。
 竹本座の創立者は、竹本義太夫浄瑠璃語りで、近松とともに近世浄瑠璃を完成させたと言われる人物である。
 近松最大の当たり作は「国性爺合戦」、堂々たる時代ものである。当時の観客は、日本を東アジアの一部として考える視野を持っていたのかもしれない。「なむきゃらちょんのふとらやあやあ」という、「千手千眼大悲心経」を漢語でいったかけ声が大はやりした。
 竹本座と鎬を削る間柄だった豊竹座でも、立作者として近松に拮抗した紀海音が、自宅も焼けて、六十二歳で引退し、以後は俳諧狂歌に生きることになった。豊竹座は、元禄十六年に、竹本座の竹本采女が独立し、豊竹若太夫を名のって始めた人形操り芝居である。人形遣いの辰松八郎兵衛が相座元になっていた。若太夫が独立したのはわずか二十三歳の時であった。
 火事のあとの復興は早く、竹本座も仮小屋を建てて、七月には出雲自身の作「諸葛孔明鼎軍談」も上演した。「三国志」に取材した大胆な作であった。これには、近松が推奨の序文を書いてくれた。
 「竹田出雲少掾千前(出雲の号・千前軒)、予が浄瑠璃作文を深信じ。心を付て工夫を凝し。品々はなやかにめづらかなる趣向を編。予に添削口伝を受。蟠龍の時を待つこと十年余。今度。諸葛孔明鼎軍談。出雲掾一人の心腹より出る一字一点よが添削琢磨の筆を加えず。善哉。迫譜(せりふ)。わたりもぢり。およぎ等。文字の活亡(いきしに)。悉予が秘する所にかなひ。瓶に心水を移すがごとし。故(かかるゆへ)節にかけて口にあまらず。たらぬことなく。操の小間あかず。国姓爺に肩ならぶるとの評判。又楽しみにあらずや。ここに至つて、浄瑠璃作者竹田出雲と題せんに誰か非なりと云はん。

 その近松門左衛門は、十一月二十二日、没した。中年を過ぎてから浄瑠璃作者として多くの著名作品を残した人だった。竹本座では、出雲作の「右大将鎌倉実記」を上演していた時期だった。
 出雲は、近松亡きあとの作者の体制を整えなければならない。自分と、一番頼りになるのは和吉の文耕堂であろう。
 穂積以貫は、当時三十歳ほど、京都の伊東東涯に師事する古義学派の儒学者だが、近松の心酔者で、のち『難波土産』に「虚実皮膜の論」を近松の言葉として書いたことで知られる。竹本座への出入りも繁く、出雲のところへ題材「大友真鳥」を持ち込んできた。これは古浄瑠璃で、文武天皇時代に謀叛を起こした九州探題である。高村兼道、助八の兄弟がその企みを打ち破るという架空の物語だが、真鳥はキリシタン大名大友宗麟をモデルとしている。
 翌年九月「大内裏大友真鳥」として上演された。だがその頃、頼みとしていた文耕堂が、京都へ行って亀屋座という歌舞伎芝居の作者になってしまった。
 八代将軍吉宗享保の改革で奢侈を禁じたので、歌舞伎や江戸の浄瑠璃は弾圧を受けたが、大坂の浄瑠璃だけは、禁裏の保護もあり、弾圧を免れた。 

ショッカーその他

ウルトラシリーズでは、「ウルトラマンA」の前期におけるヤプールのような固定敵はいないが、一話完結型戦闘特撮やアニメでは固定敵がいるのが普通である。ここで固定敵の名前を一覧にしてみた。

 

*ジャイアントロボ BF団(ギロチン帝王)
*マグマ大使 ゴア
*サイボーグ009 ブラックゴースト
*スペクトルマン 宇宙猿人ゴリ(71)
*仮面ライダー ショッカー、ゲルショッカー(71)
*バロム1 ドルゲ(72)
*デビルマン デーモン(72)
*レインボーマン 死ね死ね団(72)
*変身忍者嵐 血車党(72)
*ロボット刑事 バドー(72)
*ガッチャマン ギャラクター(72)
*アイアンキング 不知火一族・独立幻野党(72)
*トリプルファイター デーモン(72)
*人造人間キカイダー ダーク(プロフェッサー・ギル)(72)
*サンダーマスク 宇宙の魔王デカンタ(72)
*ウルトラマンA ヤプール(72)
*アストロガンガー ブラスター星人(72)
*快傑ライオン丸 大魔王ゴースン(72)
*仮面ライダーV3 デストロン(73)
*ジャンボーグA グロース星人(73)
*流星人間ゾーン ガロガバラン星人(73)
*イナズマン 帝王バンバ・新人類帝国(73)
*風雲ライオン丸 マントル一族(73)
*キカイダー01 シャドウ(73)
*レッドバロン 鉄面党(73)

*ミクロイドS ギドロン(73)
*魔人ハンターミツルギ サソリ軍団(73)
*白獅子仮面 火炎大魔王(73)
*鉄人タイガーセブン ムー原人(73)
*ダイヤモンドアイ 前世魔人(73)
*マッハバロン ロボット帝国(ララーシュタイン)(74)
*グレートマジンガー ミケーネ帝国(74)
*電人ザボーガー シグマ(74)
*宇宙戦艦ヤマト ガミラス(74)
*仮面ライダーX GOD機関(74)
*仮面ライダーアマゾン ゲドン(75)
*グレンダイザー ベガ星(75)
*勇者ライディーン 妖魔帝国(75)
*秘密戦隊ゴレンジャー 黒十字軍(75)
*仮面ライダーストロンガー ブラックサタン(76)
*ザ・カゲスター サタン帝国(76)
*ゴワッパー5ゴーダム 地底軍団ドロンジャー(76)
*大鉄人17 ブレーン(76)
*超電磁ロボコン・バトラーV キャンベル星人(76)
*宇宙鉄人キョーダイン ダダ星(76)
*スカイライダー ネオショッカー(77)
*超電磁マシーンボルテスV ボアザン星間帝国(77)
*快傑ズバット ダッカー(77)
*ジャッカー電撃隊 クライム(77)
*ダンガードA ドップラー軍団(77)
*無敵超人ザンボット3 ガイゾック(77)
*無敵鋼人ダイターン3 メガノイド(78)
*仮面ライダースーパー1 ドグマ(78)
*宇宙魔神ダイケンゴー マゼラン帝国(ロボレオン)(78)
*機動戦士ガンダム ジオン公国(79)
*バトルフィーバーJ 秘密結社エゴス(79)
*仮面ライダーブラック 暗黒結社ゴルゴム(79)
*未来ロボダルタニアス ザール星間帝国(79)
*デンジマン ベーダー一族(80)
*仮面ライダーBLACK RX クライシス帝国(80)
*伝説巨神イデオン バッフ・クラン(80)
*太陽戦隊サンバルカン 機械帝国ブラックマグマ(81)
*ゴーグルファイブ 暗黒科学帝国デスダーク(82)
*ダイナマン ジャシンカ帝国(83)
*バイオマン 新帝国ギア(84)
*チェンジマン 宇宙帝国大星団ゴズマ(85)
*超新星フラッシュマン 改造実験帝国メス(86)
*マスクマン 地底帝国チューブ(87)
*ライブマン 武器頭脳軍ボルト(88)
*光速戦隊ターボレンジャー 暴魔(89)
*ファイブマン 銀帝国ゾーン(90)
*鳥人戦隊ジェットマン 次元戦団バイラム(91)
*ダイレンジャー ゴーマ(93)
*グリッドマン カーンデジファー(93)
*オーレンジャー マシン帝国バラノイア(95)
*カーレンジャー 宇宙暴走族ボーゾック(96)
*メガレンジャー 邪電王国ネジレジア(97)
*ギンガマン 宇宙海賊バルバン(98)
*ゴーゴ-ファイブ 災魔一族(99)
*タイムレンジャー ロンダーズファミリー(2000)
*ガオレンジャー オルグ(01)
*ハリケンジャー 宇宙忍群ジャカンジャ(02)
*仮面ライダー龍騎 ミラーモンスター(02)
*アバレンジャー 邪命体エヴォリアン(03)
*仮面ライダー555 オルフェノク(03)
*デカレンジャー アリエナイザー(04)
*仮面ライダー響鬼 魔化魍(05)
*ボウケンジャー ネガティブシンジケート(06)
*ゲキレンジャー 臨獣拳アクガタ(07)
*仮面ライダー電王 イマジン(07)
*ゴーオンジャー ガイアーク(08)
*仮面ライダーキバ ファンガイア(08)
*仮面ライダーカブト ドーパント(09)
*シンケンジャー 外道衆(09)
*ゴセイジャー 悪しき魂(10)
*仮面ライダーオーズ グリード(10)
*ゴーカイジャー 宇宙帝国ザンギャック(11)
*仮面ライダーフォーゼ ゾディアーツ(11)
*ゴーバスターズ ヴァグラス(12)
*仮面ライダーウィザード ファントム(12)
*キョウリュウジャー デーボス軍(13)
*トッキュウジャー シャドウライン(14)
*ニンニンジャー 牙鬼軍団(15)
*ジュウオウジャー 宇宙の無法者デスガリアン(16)
*キュウレンジャー 宇宙幕府ジャークマター(17)
*リュウソウジャー 戦闘民族ドルイドン(19)
*キラメイジャー ヨドン軍(2020)
*ゼンカイジャー キカイトピア王朝トジテンド(21)
*ドンブラザース ヒトツ鬼(22)

文芸評論の真実

私は、新潮社とかの大手文藝出版社から文藝評論の本を出してもらったことがない。といえば『片思いの発見』があるじゃないかと言われるかもしれないが、あれは文藝評論扱いではないのだ。確かにハードカヴァーだが、『新潮』に載せたものではない。その後『文學界』で連載したのも、文藝春秋では本にならなかった。

 真正の文芸評論というのは、福田和也の『日本の家郷』みたいな、採算を度外視して『新潮』に載せたのがハードカヴァーで地味な装丁で出るのを言うのである。渡辺直己なら『谷崎潤一郎 擬態の誘惑』(1992)と『日本小説技術史』(2012)が新潮社から出ている。柄谷行人は新潮社から出たことはないが、講談社から白い表紙のをたくさん出しているし、『群像』連載である。三浦雅士も『群像』連載を分厚いので講談社から出している。

 最近では文芸評論はあまり出なくなったが、安藤礼二講談社からよく出しているし、新潮社では大澤信亮が特別待遇文藝評論家である。福嶋亮大が最近新潮社から出したので「おっ」と思った。

作家の長者番付

新聞記事から、作家の長者番付の変遷を調べてみたが、2005年以降、発表されなくなったので、今どうなっているか分からないのは不便だ。死んだら除かれるから西村京太郎ではないだろうが、今は一位は誰なんだろう。〇は初登場。

 

1965
 1,山岡荘八、2,松本清張、3,源氏鶏太、4,石坂洋次郎、5,山田風太郎、6,柴田錬三郎、7,川口松太郎、8,水上勉、9,井上靖、10、石原慎太郎、11、司馬遼太郎
1966
 1,山岡、2,源氏、3,松本、4,谷崎潤一郎、5,川口松太郎、6,柴田、7,司馬
1967
 1,松本、2,源氏、3,石坂、4,山岡、5,柴田、6,井上、7,〇黒岩重吾、8,石原慎太郎、9,司馬、10、大久保康雄
1968 
 1,松本 2,司馬 3,源氏 4,石坂、5,〇梶山季之 6,谷崎松子、7,柴田錬三郎、8,井上靖、9,黒岩、10,山岡
1969
 1,司馬、2,松本、3,梶山、4,〇佐賀潜、5,源氏、6,柴田錬三郎、7,石坂、8,〇北杜夫、9,黒岩、10、山岡
 11、川端康成

1970
 1,梶山、2,松本、3,佐賀潜、4,司馬、5,〇吉田健一、6,海音寺潮五郎、7,山岡、8,川端康成、9,柴田錬三郎、10、源氏
1971
 1,松本、2,司馬、3,山岡、4,梶山、5,〇藤原弘達、6,〇五木寛之、7,石原慎太郎、8,黒岩、9,井上靖、10、〇曽野綾子

1972
 1,松本、2,司馬、3,山岡、4,五木、5,〇川上宗薫、6.梶山、7,井上靖、8,柴田、9,〇花登筐、10、〇石川達三
1973
 1,司馬、2,〇有吉佐和子、3,松本、4,五木、5,〇北杜夫、6,〇笹沢左保、7,石川、8,川上宗、9,井上靖、10、山岡
1974
 1,松本、2,司馬、3,〇遠藤周作、4,五木、5,〇小松左京、6,有吉、7.川上宗、8,石川、9,井上靖、10、北杜夫
1975 
 1.松本、2,司馬、3,五木、4.遠藤、5,石川、6,山岡、7,〇宇能鴻一郎、8,北杜夫、9,川上宗、10、花登筐
1976
 1,松本、2,司馬、3,五木、4,石川、5,遠藤、6,〇横溝正史、7,有吉、8,山岡、9,宇能、10、〇井上ひさし
1977
 1,松本、2,司馬、3,横溝、4,五木、5,〇森村誠一、6,〇城山三郎、7.宇能、8,石川、9,遠藤、10、〇高木彬光
1978
 1,森村、2,横溝、3,松本、4,司馬、5,〇新田次郎、6,五木、7,城山、8,〇梶原一騎、9,高木、10、〇池波正太郎
1979
 1,森村、2,松本、3,〇西村寿行、4,司馬、5,五木、6,横溝、7,新田、8,有吉、9.池波、10、梶原
1980
 1,西村寿行、2,〇大藪春彦、3,五木、4,高木、5,松本、6,司馬、7、池波、8,横溝、9,花登、10、〇半村良
1981
 1,司馬、2,五木、3,西村寿行、4,松本、5,大藪、6,井上靖、7,森村、8,遠藤、9,池波、10、小松左京
1982
 1,司馬、2,石坂、3,西村寿行、4,松本、5,横溝、6,五木、7,森村、8,〇勝目梓、9、笹沢、10、遠藤
1983
 1,松本、2,〇赤川次郎、3,西村寿行、4,司馬、5.森村、6,笹沢、7,〇渡辺淳一、8,大藪、9,池波、10、井上ひさし
1984
 1,赤川、2,松本、3,司馬、4,西村寿行、5,〇西村京太郎、6,笹沢、7,渡辺、8,〇平岩弓枝、9,池波、10、〇筒井康隆
1985
 1,赤川、2,西村京太郎、3,司馬、4,松本、5,西村寿行、6,渡辺、7,笹沢、8,森村、9,平岩、10、〇片岡義男
1986
 1,赤川、2,西村京太郎、3、池波、4,松本、5,西村寿行、6,司馬、7,〇栗本薫、8,渡辺、9,森村、10、笹沢

1987
 1,赤川、2,西村京太郎、3,司馬、4,渡辺、5,西村寿行、6,松本、7,遠藤、8,〇菊地秀行、9,栗本薫、10、池波

1988
 1,赤川、2,西村京太郎、3,司馬、4,西村寿行、5,池波、6,菊地秀、7,〇田辺聖子、8,渡辺、9,松本、10、栗本薫

1989
 1,赤川、2,西村京太郎、3、〇村上春樹、4,池波、5,西村寿行、6,司馬、7,菊地、8,松本、9,〇山村美紗、10、〇斎藤栄

1990
 1,赤川、2,西村京太郎、3,〇吉本ばなな、4,村上春樹、5、司馬、6、池波、7,西村寿行、8、菊地、9、渡辺、10、〇藤島泰輔

1991
 1,赤川、2,西村京太郎、3,司馬、4、松本、5、菊地、6、西村寿行、7、〇田中芳樹、8、〇内田康夫、9、渡辺、10、斎藤栄

1992
 1,赤川、2 西村京太郎、3、内田、4、司馬、5、〇椎名誠、6、山村美紗、7、菊地、8、遠藤、9、〇落合信彦、10、笹沢

1993
 1、赤川、2、西村京太郎、3、内田、4、司馬、5、菊地、6、田中芳樹、7、渡辺、8、山村美、9、〇豊田行二、10、〇辺見じゅん

1994
 1、赤川、2、西村京太郎、3、内田、4、司馬、5、山村美紗、6、津本陽、7、森村誠一、8、荒巻義雄、9、菊地、10、斎藤栄

 

1995
 1、赤川、2、西村京太郎、3、内田、4、司馬、5,森村、6,斎藤栄、7、菊地、8、荒巻、9、椎名、10、津本、11、山村美紗、12、〇藤沢周平、13、〇大江健三郎、14、〇群ようこ、15、豊田行二、16、五木、17、田中芳樹、18、遠藤、19、〇志茂田景樹、20、〇門田泰明

1996
 1、赤川、2、西村京太郎、3、内田、4、森村、5、〇神坂一、6、斎藤栄、7、菊地、8、山村美、9、五木、10、田中芳樹    

1997
 1、内田康夫、2、西村京太郎、3、森村、4、神坂一、5、津本、6、渡辺、7、田中芳樹、8、椎名、9、石原慎太郎、10、斎藤栄

1998
 1、赤川、2、渡辺、3、西村京太郎、4、内田、5、村上春樹、6、浅田次郎、7、森村、8、〇林真理子、9、〇宮部みゆき、10、津本陽     
1999
 1、西村京太郎、2、赤川、3、〇鈴木光司、4、宮部、5、内田、6、浅田、7、五木、8、森村、9、〇宮城谷昌光、10、神坂、11、菊地、12、〇群ようこ、13、渡辺、14、〇星野富弘、15、椎名、16、斎藤栄、17、田中芳樹、18、筒井、19、〇北方謙三、20、〇河合隼雄
2000
 1、西村京太郎、2、内田、3、宮部、4、鈴木光司、5、浅田、6、五木、7、森村、8-9、〇桐生操、10、星野富弘、11、村上春樹、12、津本、13、〇赤瀬川原平、14、山崎豊子、15、〇東野圭吾、16、菊地、17、〇天童荒太、18、〇桐野夏生、19、〇京極夏彦、20、神坂一
2001
 1、西村京太郎、2、赤川、3、宮部 4、山崎豊子、5、内田、6、浅田、7、五木、8、天童、9、〇真保裕一、10、北方、11、菊地、12、〇夢枕獏、13、〇江國香織、14、〇阿川佐和子、15、〇落合信彦、16、津本陽、17、星野富弘、18、森村、19、東野、20、林真理子     
2002
 1,西村京太郎、2、宮部、3、赤川、4、内田、5、浅田、6、夢枕、7、江國、8、森村、9、真保、10、東野
2003
 1、西村京太郎、2、宮部、3、内田、4、村上春樹、5、赤川、6、北方、7、江國、8、〇唯川恵、9、東野、10、〇小野不由美
2004
 1、西村京太郎、2、内田、3、〇養老孟司、4、宮部、5、村上春樹、6、〇片山恭一、7、浅田、8、赤川、9、〇横山秀夫、10、東野
2005
 1、西村京太郎、2、片山恭一、3、村上春樹、4、養老、5、浅田、6、内田、7、宮部、8、赤川、9、江國、10、〇市川拓司