萩尾望都「一度きりの大泉の話」書評「週刊朝日」8月

 一九九〇年前後、小学館の少女漫画誌『プチフラワー』に連載されていた萩尾望都の、少年への義理の父による性的虐待を描いた「残酷な神が支配する」を、私はなぜこのようなものを萩尾が長々と連載しているのだろうと、真意をはかりかねる気持ちで読んでいた。中川右介の『萩尾望都竹宮惠子』(幻冬舎新書)を読んだとき、これが、竹宮の『風と木の詩』への批判なのだということが初めて分かった。     
 萩尾と竹宮は、一九七〇年代はじめ、少女漫画界のニューウェーブの二人組として台頭してきた。竹宮の代表作が、少年愛を描いて衝撃を与えたとされる『風と木の誌』で、萩尾も初期は『トーマの心臓』など少年愛かと思われる題材を描いていたが、その後はSFなどに移行していき、竹宮は京都精華大学マンガ学部の教授から学長を務め、萩尾は朝日賞を受賞するなど成功を収めた。      
 二〇一六年に竹宮が自伝『少年の名はジルベール』を刊行し、漫画は描かないがストーリーは作るプロデューサー的な人物だった増山法恵と萩尾と三人で東京の大泉に暮らしていた時期のことを書いた。それは萩尾が出ていくことで終わったのだが、「大泉サロン」と呼ばれ、世間ではこれは少女漫画版「トキワ荘」であり、ここから少女漫画の「革命」が起きたのだと位置づけられ、朝ドラになると言われ、萩尾と竹宮の再会と対談を望む声が多く寄せられた。           
 だが、萩尾はそれらを固く断り、自ら、竹宮との「絶縁」の真相を語ったのがこの著作である。萩尾は、この事実は固く封印していたものだが、それらの声を封じるため、一度だけ解凍すると言っている。萩尾は、自分は竹宮や増山のように、少年愛には関心はなかったと言い、しかし彼らに合わせる形でか(そうは言っていないが)少年愛風の作品を描いたところが、ある時二人から、竹宮が暖めていた『風と木の詩』の盗作ではないかと問い詰められ、さらに手紙が来て、自分らに近づかないでほしいと言われたという。萩尾は以後、『風と木の詩』を含めて竹宮の作品を一切読まず、竹宮や増山の「
排他的独占領域」に触れないように用心してきたという。      
 萩尾の作品を年代順に読んでいけば誰でも、ある時期から描線が固くなったことに気づく。のびやかで丸っこい竹宮と似た描線が、ぎごちないものになってしまう。それはまったくこの呪縛のためだったのだろうかと驚きを覚える。 
 私の高校生から大学生の時代は、萩尾や竹宮、山岸涼子大島弓子らの「少女漫画家」が神のように崇められ始めた時代で、私は大学一年の学園祭で、萩尾が漫画化したコクトーの「恐るべき子供たち」を劇化して演出したが、これは同性愛者コクトーならではの作品で私にはよく分からなかった。それから今日まで、現代の知識人は少年愛や同性愛が分からなければダメだという同調圧力を私は感じてきた。中川の著書は、竹宮と萩尾が「革命」を起こしたと書いており、これも私には一つの圧力だった。              
 だから当事者のかたわれたる萩尾自身が、そんな革命は竹宮と増山が考えていただけだと言い、少年愛になど関心がなかった、と言うことは、私には長年の呪縛からの解放のように感じられた。   
 しかし萩尾は「残酷な神が支配する」について本書では何も言っていない。やはりあれは少年への大人によるレイプすら美化してしまった竹宮への批判だったのだろう。その点では、竹宮を祭り上げてきた漫画評論家たちが、改めて批判されなければならないだろう。竹宮の自伝出版を発端として、萩尾がこの件を明らかにしてくれたことは、漫画史のみならず、思想史的にすら重要なことだったと、私は感謝の念すら覚えるのである。

小谷野敦
 

 

谷沢永一の大学紀要論

日本近代文学者で評論家の谷沢永一関西大学教授の「アホばか間抜け 大学紀要」は『諸君!』の1980年6月号に載った(「あぶくだま遊戯」所収)。大学紀要がいかにくだらない論文を載せているかという痛罵の論でその後しばらく話題になった。1988年の中沢騒動の時も西部邁が論及していた。谷沢は躁うつ病だったから、これは躁状態で書いたものだ。

しかし谷沢は、左翼嫌いの東大嫌いだったから、実例としてあげたのは、無名学者の真にくだらない紀要論文ではなく、東大教養学部紀要の、藤井貞和とか桑野(百川)敬仁の「現代思想」風「源氏物語」論批判をしたため、「現代思想」批判にはなっても、大学紀要批判としては的を外したものになってしまった。平川祐弘も左翼嫌いではあったが東大びいきだから、谷沢のこれをあまり説得力はないと書いていた。

世間で人気が高いが私は乗れない映画

凱旋門、望郷、用心棒、隠し砦の三悪人ゴッドファーザー仁義なき戦い(その他やくざ美化映画全般)、東京物語(小津映画全般)、理由なき反抗、ジュラシック・パークフォレスト・ガンプマディソン郡の橋、愛人、ポンヌフの恋人バグダッド・カフェ、ファーゴ(コーエン兄弟全般)、西部劇全般、イージー・ライダーラスト・ショーテルマ&ルイーズヴェニスに死す、地獄に堕ちた勇者ども、卒業、ダンス・ウィズ・ウルブズ気狂いピエロ(その他ヌーヴェル・ヴァーグ全般)地下鉄のザジ、僕のおじさん、ラストタンゴ・イン・パリ(ほかベルトルッチ全般)ペーパームーンブルジョワジーの秘かな愉しみ(その他ブニュエルはだいたい)アマルコルド、田園に死す、愛の嵐、ジョーズ惑星ソラリス(その他タルコフスキー羊たちの沈黙幸福の黄色いハンカチ地獄の黙示録蒲田行進曲戦場のメリークリスマスベルリン・天使の詩北野武全般、レザボアドッグス、日の名残りもののけ姫、オール・アバウト・マイ・マザー、アメリカン・ビューティ、あの頃ペニー・レインとブリジット・ジョーンズの日記リリイ・シュシュのすべてアメリあの頃ペニー・レインとパッチギ!ジョゼと虎と魚たち河童のクゥと夏休みラ・ラ・ランドサマーウォーズ

俳優になりたかった

信じられないかもしれないが、私も一瞬だけ、俳優になりたい、と思ったことがある。高校一年のころである。結果的には、人づきあいが無理だろうといったことで霧消していったが、その時ちょっと悩んだことは、「嫌な人間を演じられるか」ということだった。たとえばきわめて男尊女卑的な男を演じるのは嫌だということがあって、もしその男が作品内で悪役として描かれているならまだいいが、肯定されていたら耐えられないと思った。じっさいその当時は「まあ女子は大人になったら家庭に入るわけだし」といったセリフを「中学生日記」の先生役が口にしたりしていた。

 多分そのことは今でも尾を引いていて、たとえばフィクション小説を書くときに、自分では許せない人物というのを描けない。これはかなりまずい。だから殺人事件が起こるような小説は書けないのである。

「遊女」という呼称

某所で、明治初年の芸娼妓解放令で、遊女が娼妓になったという記述を見たが、徳川時代の娼婦を「遊女」と呼ぶのは疑問である。横山百合子の「遊女の終焉へ」(「近世史講義」ちくま新書)も疑問だが、遊女はむしろ中世的な用語で、近世においては公文書では「売女(ばいじょ)」である。

知らないことは訊けない

私が修士論文を書いた時(1989年)、私はコピー室へ行って、オートシートフィーダを知らなかったため、一枚一枚コピーしていた。半分ほどやったところで事務の人がきて、オートシートフィーダを教えてくれ、「あらー杉田さん(助手)に訊けばよかったのに」と言われたのだが、知らないことは訊けない。あとから男の人も来て同じことを言うから泣きたくなった。

 「そういうものがある」ということは知らないと質問できないのである。この論理は頑強で、「分からないことがあったら何でも質問してください」ということを言う人は、こういうものがあるということを知らないと質問できないし、逆に知っていれば質問しないでも検索すれば済むという現代の逆説に気づいていないのである。

 それから20年以上たち、父が60歳を過ぎて、時どきぼうっとして口をパクパクさせる、と母が言いだした時も、医者に話しても分からず、慶応病院へ連れて言ったらすぐ老人性てんかんだと分かった。それから十年ほどして、週刊誌に「老人性てんかん」の記述があるのを見たら、その時の父の症状にぴったりだった。母はもう死んでいたから、悔しかった。

 「存在することを知らない人にそれを教える」というコンピューターは、いずれできるのだろうか。

宮崎芳三と批評

『ちくま』九月号に廣野由美子の「批評とは何か」という文章が載っている。ちくま新書の新刊、北村紗衣の『批評の教室』の宣伝文である。廣野は京大人間環境学の教授で19世紀英国小説が専門だ。冒頭、廣野が修士課程を終える時に定年退官した指導教授のM先生というのが出て来る。廣野は京大独文科卒だが、大学院は神戸大で英文学を学んだから、これは神戸大教授だった宮崎芳三(1926- )で、もしかするとまだご存命ではないか。

 99年に宮崎先生から著書『太平洋戦争と英文学者』を寄贈されて、「朝日新聞」の「ウォッチ文芸」で紹介したことがある(なおこれは三人で担当する欄だったが、私の前に担当していたのが鴻巣友季子だった)。当時宮崎先生は、阪大助教授であった私をもっと年かさの人だと思っていたらしいということを人づてに聞いた。

 ところで廣野は、宮崎先生から、論文からは「私」を消せと言われ、「私」は「筆者」に変えるように言われたという。これはちょっと形式的だが、『太平洋戦争と英文学者』では宮崎先生もそういう軌範から自らを解き放って、「私は」と盛んに書いていた。

 廣野さんは、宮崎先生のそういう姿勢と対照的なのが北村の態度だと論を進める。私はまだ図書館から回ってこないので北村著を見ていないが、アマゾンレビューから推測するに、ここでは「批評」を学問としてではなく「文藝」としてやっていると思う。

 宮崎先生は科学的で客観的な「学問」を目ざしたのだろうが、文学研究で学問といえるのは、作家の伝記研究、またその環境の研究、作品については語注や注釈くらいで、作品を読んでどうとらえるかという「批評」は客観的ではありえない。フロイト精神分析にしてからが科学でも客観的でもないのである。

 これに対して異論のある人もいるだろうが、あるならあるでちゃんと議論すればいいのだが、やると具合が悪いか喧嘩になるからやらないようで、匿名でごちょごちょ言うくらいしかできないようである。

小谷野敦