「殺陣師段平(たてしだんぺい)」の謎

 「殺陣師段平」といえば、私にはある種の伝説としてのみ存在した新国劇狂言である。大正年間、澤田正二郎が旗揚げした新国劇の殺陣師だった大阪の市川段平は、市川右団次門下にあって中村鴈治郎(初代)とわたりあったというのが自慢である。1982年に市川森一が書いた名作ドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」は、大衆演劇の世界を背景にしたものだが、その最終回で原保美が「殺陣師段平を気取って言えば、こいつが写実、リアリズムってもんじゃないですかね」と言っているし、段平といえば「できました、こいつが写実、リアリズムの殺陣でござんす」とかいうセリフのある芝居だと思っていた。
 初演は1949年3月9日の有楽座、沢正は辰巳柳太郎、段平を島田正吾でやったというが、その後、1950年に黒澤明の脚本でマキノ雅弘が映画化しており、この時は段平を月形龍之介、沢正を市川右太衛門が演じ、1955年には「人生とんぼ返り」の題でマキノが再映画化し、段平を森繁久彌、沢正を河津清三郎が、さらに1962年には「殺陣師段平」の題で瑞穂春海監督による三度目の映画化があるがこれも黒澤明脚本で、段平は二代目中村鴈治郎、沢正を市川雷蔵が演じている。段平のモデルは、島田の師匠の市川升六だという。
 だがこれらはかなり複雑な様相を呈している。原作は何度も直木賞の候補になった長谷川幸延の台本だというが、これは現存していない(藤井康生がそう書いている)。黒沢のシナリオは「全集黒澤明 第三巻」にちゃんと入っているのだが、これは明らかに1962年版のシナリオではあるが、1950年版とはかなり違う。
 このへんのことは藤井康生(やすなり)・大阪市立大学名誉教授が『上方芸能』に連載したものをまとめた『幻影の「昭和芸能」  舞台と映画の競演』(森話社、2013)に詳しく書いてあるのだが、それでも、1950年版映画の結末がよく分からない。
 そもそも話は、大正六年(1955年映画による)に沢正が「国定忠治」をやろうとして、歌舞伎の様式的な立ち回りとは違うリアリズムの立ち回りをやろうとするところから始まる。そこへ段平が、それならわいが殺陣をつけます、と出て来るが、沢正は、君のは歌舞伎の立ち回りで、自分がやろうとしているのはリアリズムだ、と言う。1955年映画の森繁はここが愚劇になっていて、「リアリジュウってのは何だす、どこに売ってるんだす、わて、女房子供をたたき売っても買ってきます」とか言う。
 そのあと「英語で言ったのが悪かった。写実ということだ」「写実って何だす」と言うが、ここで澤田は「先生」と呼ばれていて、それは早稲田大学を出たからなのだが、ここでは大学出の沢正と目に一丁字もない段平の対比がしちくどい。段平は明治の生まれで、それで歌舞伎の世界にいたなら、「写実」が分からないはずはないし、歴史的事実からいっても、リアルな立ち回りというのはすでに新派ー壮士芝居でやっていたことで、大正六年にもなってこんな議論をしているはずはないのだ。森繁はそのあとも「リアリジュウ」とか言い続けていて、何だかバカにされているような気がする。
 しかしそこから、段平が奮起してリアリズムの殺陣を編み出し「これがリアリズムの殺陣でおます」と言うのかと思っていたら、それは単なる都市伝説的なセリフで、あっさりとリアリズムの殺陣はそのあと小松原の場で実現され、話は新国劇の東京の明治座進出、段平をささえる恋女房が病気で死ぬ話などへ移っていく。50年映画でも55年映画でもこれを演じたのが山田五十鈴である。だがこの恋女房お春も肺の病で死んでしまい、実は娘なのだが名乗っていないおきくが前面に出て来て、62年映画では高田美和が演じるが、50年映画の月丘千秋と、55年映画の左幸子が重要な役どころになる。時代は昭和に変わっている。
 50年映画では、京都の南座で沢正が忠次の召し捕りを演じている。史実の通り、この時忠次は中風だった。やはり中風の段平は病床にあり、娘とほか二人に「御用だ」と言う捕り手を演じさせ、蒲団の中で段平は刀を抜く立ち回りをしようとするができない。そこからが分からなくなって、南座へ突然娘のおきくがやってきて、幕間に花道を駆けていき、舞台で寝ている沢正に、段平の殺陣を見てくれと言うが、沢正は、「段平が来なければしょうがないじゃないか」と言っていったんは追い返すが、がばと跳ね起きて、おきくを呼び戻し、下りた幕から観客に、今しばらくお待ちくださいと言い、おきくに殺陣をつけさせる。おきくは、「忠次は刀を抜こうとします」などと説明するのだが、そのあと場面が切り替わって幕が開き、捕り手が「御用だ」と言って病床の忠次を取り囲み、忠次は刀を抜こうとするが抜けない。すると捕り手の頭らしいのが進み出て「神妙にお縄につけ」と言って終わるのだ。
 私は唖然として、これでは何の殺陣もつけていないではないかと思った。62年版を見てみると、死にかけた段平が南座の三階までやってきて、病床で何か言って殺陣をつけようとするが死んでしまい、娘の高田美和が、娘であることを沢正から告げられるのだが、こちらのほうがよほどすっきりしている。
 しかし、1955年版の映画を観ると、まず南座で沢正が忠次の立ち回りをやり、中風ながら立って戦おうとするがうまくできず捕縛され、それを三階席から観ていた段平が「あれではいかん」という顔をし、病床でやはり娘と二人相手に殺陣をつけて死んでしまい、娘が南座へ駆けつけて沢正に教え、沢正の忠次は身動きもできず床の中で苦悶したままお縄になる。つまり中風で刀を抜くこともできないというのが究極のリアリズムだというのが、この芝居の主意だったわけである。おそらく長谷川幸延の台本はこの、中風で動けない忠次を描いたものだったのかもしれない。黒澤は、それでは理に落ちすぎ、映画として観客が納得しないだろうと考えて別の結末をつけたのだろうと私は考えた。
 なお1949年初演の際の3月26日読売の安藤鶴夫劇評では「懐古趣味の凡打」と批評している。あるいは「殺陣師段平」は、時代劇風の背景なのに「リアリズム」とか言っているところが「可笑しい」というので「笑」こみで伝えられてきた芝居なのかもしれない。新国劇はつぶれてしまったが、当時お笑い芸人が国定忠治の恰好で「赤字の山も今宵限り」とやっても、観客はすでに新国劇の窮状も関心がないので誰も笑わないという悲喜劇の中にあった。

(付記)『映画新報』1950年9月の滝沢一「殺陣師段平」は、黒澤の脚本を上々とはいえないと言いつつ、結末については何も書いていなかった。同時期『キネマ旬報』の映画評では上野一郎が書いているが、こちらも同じく。上野は少し前に雑誌に載った脚本を読んだと書いているが、それはどこにあるんだろう。 
 

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「人生とんぼ返り」忠次捕縛

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「人生とんぼ返り」断末魔の段平

 

 

 

 

 


 

音楽には物語がある(33)お富さん 「中央公論」2021年8月号

 一九五四年といえば昭和二十九年、「君の名は」と「ゴジラ」の年である。前年、テレビ放送は始まっていたが、一般家庭に普及するのはまだまだで、ラジオ放送で北村寿夫作の「新諸国物語」の一つ「笛吹童子」がヒットし、貸本マンガはその黎明期だった。子供の娯楽はまだ紙芝居が主流だったろう。

この年ヒットした流行歌が、春日八郎の「お富さん」である。春日はその年三十歳、辛酸をなめたのち、前年「赤いランプの終列車」でデビューし五十万枚のヒットとなり、青木光一三浦洸一と並ぶ若手三羽烏の一人とされた。「お富さん」は、幕末期の三代瀬川如皐作の歌舞伎「與話情浮名横櫛」の一場「切られ与三」(「源氏店(玄冶店)」)を流行歌にしたもので、山崎正の作詞、渡久地政信の作曲で、これもヒットした。私は若いころ、そんな歌がヒットしたことを知って、当時の大衆は歌舞伎の演目も知っていたのかとその教養に驚いたものだが、どうもそういうものでもなかったらしい。

 「與話情浮名横櫛」が岩波文庫に入ったのは一九五八年で、どうやら「お富さん」がヒットしたから入れたらしい。ところが、新聞記事で調べると、事態は「教養がある」どころではなく、「低俗な流行歌を子供まで歌っている」と社会問題化していたのだ。この年はもう一つ、江利チエミが歌う「ウスクダラ」もヒットしていて、この二曲が、子供が意味も分からずに歌っているヒット曲としてやり玉に上っていたのだ。

 考えてみると「粋な黒塀見越しの松に」というのは「お妾さん」だし、当時の健全な中産家庭で、子供に「ねえ粋な黒塀ってなァに」と訊かれたら困っただろう。「切られ与三」の上演は、その年にはないが、前年までは市川海老蔵(のちの十一代目團十郎)と七代目尾上梅幸のコンビで上演されていた。ヒットにあやかって上演しようかという案もあったが、「お富さんへ」の場面へ来たらきっと客席から笑いが起きるというのでやめにしたという。もっとも翌五五年一月には、同じコンビで新橋演舞場で上演されている(蝙蝠安は二代目尾上松緑)。してみるとその当時は、歌舞伎というのは必ずしも

「教養」ではなくて、お妾さんが出てきたりする、子供に見せてはいけない低俗な娯楽の地位を脱していなかったのかもしれず、「お富さん」のヒットというのも、単に調子がいいのと、薄らぼんやり持っていた知識とでヒットしただけなのではなかろうか。 山口百恵の「としごろ」や、山本リンダの「狙いうち」以後の曲、ピンク・レディーの曲を子供たちが歌うのを見たあとでは、この程度はどうってことはない。

 「ウスクダラ」は、トルコ民謡がもとで、一九五三年に米国のアーサー・キットという女性歌手が歌ったのがはじまりで、五四年八月に、当時美空ひばりを入れて「三人娘」と呼ばれた雪村いづみが「ウシュカ・ダラ」、江利チエミが「ウスクダラ」を歌い、もっぱら江利のものがヒットした。私は母が江利チエミが好きだったので、よく歌っていたので覚えている。トルコ西部にあるユスキュダルという町が舞台で、キットの元歌は、そこを旅する女とその秘書の話で、雪村のはそれとは関係なく祭りの様子を歌っているが、江利チエミは、「ウスクダラ・ギデリッケン・アウダダビリヤン・ブー」と聞こえるトルコ語を交えながら、ウスクダラでは美人の女に男が奴隷のように仕えており、それを見物に行った男が、俺の腕前で女をトリコにしてみせると張り切るが、男のほうがトリコになったというたわいない歌である。

 これもその「色事」部分が、子供が歌うのは不適切だと見なされたらしい。当時私の父は二十一歳、母は十五歳だったが、そういう話はとんと聞いたことがなかった。

 

お富さん

お富さん

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「勝手にしやがれ」の思い出

 

 

 

1987年の10月1日、私は比較文学の院生一年目だったが、有楽町スバル座ゴダールの「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」二本立てをやっていたから観に行ったら、一年生の時の同級生だった男Sに会った。Sは卒業して就職していたが、一人で来ていたから、お互い一人で映画を観に来る境遇という感じがあった。
 しかし私にはこの映画は二つとも意味が分からなかった。Sは終わったあと「面白かったなあ」と言っていたが儀礼的な感じで、別に面白かったという表情はしていなかった。

腐った鯨と「ちりとてちん」

吉村昭の『北天の星』は、レザノフが長崎で日本との通商を断られたあと、自分はアメリカ大陸へ渡り、部下のフヴォストフとダヴィドフに、腹いせのため日本の北海を荒らすよう命じた際、択捉島でロシヤ人に連れ去られた中川五郎治を主人公にしている。のち五郎治は、仲間の左兵衛とともに日本へ向けて逃亡するのだが、途中、樺太の対岸で雪の中で道に迷い、ギリヤーク人の家に入れてもらうと、鯨の肉を煮ていたが、それはかなり激しく腐っていた。五郎治は一口食べて、食べるのをやめ、左兵衛にも、食うなと言うのだが、空腹に耐えかねた左兵衛はたくさん食ってしまう。左兵衛とギリヤーク人は、そのあと激しく嘔吐を始め、死んでしまうのである。腐った肉を食うと死ぬこともあるのかと思ったが、私は「酢豆腐」とか「ちりとてちん」のことを思い出した。「ちりとてちん」のほうが、腐ってからかなりたっているのでやばい感じがするのだが、あれは食ったら死ぬんじゃないか、と思うからで、もし死んだら、食わせた連中は殺人罪である。あれは「決してまねをしないでください」とテロップを入れるべき落語じゃないかという気がする。

 

 

ある種の侮ってはいけなさ

 

 

私が阪大へ行ったのは94年4月だが、宮川先生という50歳になったばかりの少し白髪の英語の先生がいた。阪大出身の英文学者であった。9月に、博士論文として提出する予定の『自然と詩心の運動 : ワーズワスとディラン・トマス』という著書をいただいた。何げなく読んで「えっ」と思った。面白いのである。正直言って、宮川先生はいかにも凡庸な感じがして、つまり侮っていたのだが、侮ってはいけないなあと思った。ちゃんと説明してあったし、覚えてはいないのだが、言うべきことは言ってあるという感じがした。

 ヨコタ村上などは、宮川さんを嫌っていたのか、「君あれ読んだ?」と言うから「読みましたよ」と言ったら「本の蟲だな」などと暴言を吐いた。こういうものの侮ってはいけなさというのを、ヨコタ村上などは知らずに生きていくのかもしれない。

 世間には、普通の学者が普通に書いたいい本というのがあるが、そのことは知っている学者は知っていて知らない学者というのがいる。阿部公彦の詩の本など読むと、かっこいい感じがして、詩が分かった気がする。そのことがもたらす侮りには注意しないといけない。

西洋彫刻と口なし

日本の巨大ヒーローは、アニメ・特撮を問わず口に、西洋彫刻型と口なし型があり、どちらとも違うウルトラマン型がある。西洋彫刻型というのは「勇者ライディーン」みたなもんだが、要するに人間の口をそのままデザインしたもので、最初は「ジャイアントロボ」あたりになろうか。「口なし」は「マジンガーZ」が最初だ。富野喜幸も「ダイターン3」では彫刻型だったが、「ガンダム」が口なしでヒットしてからはずっと口なしが主になっている。

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巨大ヒーローの口

 

 

 

学問の流行

 

 

1997年5月に、小森陽一, 紅野謙介, 高橋修 編『 メディア・表象・イデオロギー : 明治三十年代の文化研究 』(小沢書店)という日本近代文学の論文集が出て、話題になったことがある。ところが、なんで話題になったのか、内容が斬新だとか、優れた論文があるとかいうことではなく、当時流行しかけていた「カルチュラルスタディーズ」の論文集を、東大教授で文学研究の指導的立場にあった小森陽一らが出した、これがお手本だということで話題になったに過ぎなかった。実際私は一年前の96年3月に八王子セミナーハウスで開かれた漱石をめぐるワークショップに出て、小森が、これからカルスタをやると言っているのを聞いていた。

 この現象を批判したのが、林淑美の「展望 最近の近代文学研究におけるある種の傾向について--(ホモ・アカデミクス)の(イデオロギ-装置) 」(『日本近代文学』 1998-05)で、林は中野重治を専門とする研究者だったが、内容ではなく流行が専攻し、小森のようなボスが支配する状態を批判したのである。学界的には林は不遇だったが、私は当時阪大にいた出原隆俊先生の手をわずらわせてこれを入手したのを覚えている。

 まあ1980年代から「流行の学問」というのがあって、ニューアカだったりポスコロだったりカルスタだったり網野善彦だったりホモエロテイクスだったりして、最近では震災とか感染症がはやっていたりするが、学者の中には流行とは関係なく実証的な研究を地道にやっている人がいて、そっちのほうが偉いと私も思うのだが、マスメディアはどうしたって流行の学問のほうを好むものであるなと。