ウルトラマンとマグマ大使

ウルトラマンの成立については、はじめベムラーという、日活のガッパみたいな造形の、人間の味方をする怪獣を考え、それからレッドマンというゴツゴツしたヒーローを考え、それからウルトラマンになったとされている。

 しかし、ウルトラマンより早く放送が始まった「マグマ大使」を見ると、もともと手塚の原作があり、「ビッグX」もあって、人間に近い巨大ヒーローというアイディアは円谷にもあり、それとは違うものを考えたが、結局はマグマ大使寄りのものになったということかと思う。マグマ大使は当初、人間の顔を出す案もあったというが、それだと巨大感が出ないことは、シルバー仮面ジャイアントになる時の処理で逆に証明されている。

 だから、ベムラーとかレッドマンというのは、むしろ最初にマグマ大使的なアイディアがあって、それとは違う方向も考えてみた結果なんじゃないかなあ、という気がしている。

 

 

 

間宮林蔵・探検家一代―海峡発見と北方民族 (中公新書ラクレ) 高橋大輔    アマゾンレビュー

そんなに変かね?
星2つ 、2021/09/01
間宮林蔵については私も一書を著しているのだがこの本の参考文献にはない。読んでいくと、例のシーボルト事件について、林蔵がシーボルトからの手紙を開封せず幕府に届けたことを、著者は「意外な行動」と言い、なぜそんなことをしたのか、と追及していく。だが、当時は無届で外国人とやりとりしてはいけなかったから規定通り届け出ただけだと、著者が参照している赤羽栄一の本にも書いてあるので、謎ではないことを著者が謎がっている変な本になってしまっている。

乳母車・最後の女 石坂洋次郎傑作短編選 (講談社文芸文庫) アマゾンレビュー

軍人誣告罪などというものはない
星1つ 、2021/09/01
この一点は、作品よりも巻末年譜に対するものである。戦前の石坂が「若い人」で、不敬罪と軍人誣告罪で右翼から告訴されたと書いてあるが、私がくりかえし言って来たとおりこれは間違いで、右翼から出版法違反で告訴されただけ、だいたい「誣告」というのは偽りの告訴をすることで、「軍人誣告罪」などという罪はまったくこの世に存在しない。しかもこの本、表題になっている「乳母車」の初出も書いていない。

 

文学とは何か――現代批評理論への招待(下) (岩波文庫) イーグルトン」アマゾンレビュー


イーグルトンはポストモダンを批判しているのだぞ
星1つ 、2021/09/01
この一点は、文庫版への訳者大橋洋一のあとがきに対するものである。大橋は、文学理論の正しさを言い、これを否定するものを保守派守旧派と罵っているが、中で「ジャック・ラカンデリダを引用できない者は文学研究者と見なされないようになった」と書いている。しかしイーグルトンはポストモダンを批判しているし、ソーカル事件についてはあまり言いたくないがポモが過去の遺物となった時点でこんなことを言うのはおかしいだろう。現にその大橋が「新文学入門」なんて本しか単著を出せない翻訳業者ではないか。

シャルル・ドゴール空港

2018年1月にNHKで全四回で放送された「平成細雪」は、「細雪」の舞台を1990年代のバブル崩壊後の日本に移したもので、蓬莱竜太がシナリオを書いていた。あとで録画しておけば良かったと思ったのだが、その第一回で、雪子(伊藤歩)と見合いするイケメン男が、フランスで女と別れた時のことを元気一杯に話すところが特にいい。相手の女はオノリーヌというのだが、私はその年6月ころにその名前が思い出せなくてNHKオンデマンドで観て確認したのに、こないだまた思い出せなくてまたオンデマンドで観てしまった。

 ドゴール空港で男がオノリーヌにクマのぬいぐるみをあげて別れを告げると、

「オノリーヌ、怒る! シャルル・ドゴールの真中で。クマのぬいぐるみを抱えて、大泣き!」

 とか言って、雪子と幸子(高岡早紀)は笑っているのだが、そのあと幸子が、この人はなんでお見合いの時に前の女の話なんかするんやろ、と不審げな表情をする。場面変わって後日、その男がフランス人の女を妊娠させたことが分かってお見合いはパア。幸子が「オノリーヌ・・・」とつぶやく。

 おそらく、フランス人との恋愛は「旅の恥はかき捨て」で日本では別もの、と思っていたのだろうというその意識の描写がおもしろいのだ。

 あと、長谷川町子の『サザエさんうちあけ話』に、知人の変わった男性が、荷物は預けて手ぶらでドゴール空港を歩いていて不審人物だと思われたということが書いてあったが、どうもシャルル・ドゴール空港というのは、そういう場所に設定したくなるらしい。むろん私は行ったことはないが。

古代と近代の架け橋 江戸のダイナミズム」西尾幹二・アマゾンレビュー

学識の豊かさが内容の正しさを意味しない一例
星2つ 、2021/08/28
「ですます」体で書かれているのが、読者に媚びる時代を示しているようだ。著者はドイツ文学、特にニーチェが専門だが、ニーチェに連なる古代ギリシャの文献学から、清朝考証学などあちこちの文献学に通じている。ところが「そもそも古代への学問が、古代の魂へ推参する率直さや勇気を欠いて成立したためしはありません」(94p)などという小林秀雄流神がかりぶりを示したところで、ああどれほど学識はあっても「魂」とか言い出すようではだめだと思い読み進むとやっぱり本居宣長を持ち出しての天皇制礼讃になっていくのであった。「国民の歴史」は面白かったんだがね。「諸君!」連載。なお徳川時代については学問の話ばかりで徳川期文化のことはほとんど触れられていない

水村美苗「見合いか恋愛か」について

 水村美苗の「見合いか恋愛か」という漱石『行人』論は、文学研究者の間でやたら人気が高く、最近もある著作の中で(藤森清三四郎の駅弁』)唐突に出くわしたので改めて書いておくがあれは間違いである。

 水村は『行人』の一郎が、見合いで結婚したのに妻に恋愛を求めていると言い、恋愛結婚ではないのだから相手を恋する義務はない、と言うのだが、恋愛結婚だってそんな義務はない。ないどころか、恋愛を基礎として結婚する以上は恋愛が消えたら離婚すべきかという議論さえ大正時代にはあり、与謝野晶子なんかは恋愛なき結婚は不義であるとまで言い、じゃあ自分はどうしていたかといえば生涯与謝野鉄幹(寛)に恋していて、自分も恋されていると思い込んでいたのである。

 水村はのち『母の遺産』で、恋愛結婚したらしい夫が浮気する様を描いて、自らこのテーゼを否定するが、日本近代文学者から英文学者まで、水村テーゼはやたらと人気があり、私は「?」と思っていた。しかしなんでこんな杜撰な論を提示してしまったのだろうと思うと、水村という人は、これを書いたら受ける、というものが書ける人らしく、「日本語が滅びるとき」だって、私は一読して焦点のボケた本だなと思っていたら単行本になったらベストセラーになり小林秀雄賞までとったのだから、やや魔女的なところがある。あるいは純文学界の山崎豊子とでも言おうか。