学識の豊かさが内容の正しさを意味しない一例
星2つ 、2021/08/28
「ですます」体で書かれているのが、読者に媚びる時代を示しているようだ。著者はドイツ文学、特にニーチェが専門だが、ニーチェに連なる古代ギリシャの文献学から、清朝考証学などあちこちの文献学に通じている。ところが「そもそも古代への学問が、古代の魂へ推参する率直さや勇気を欠いて成立したためしはありません」(94p)などという小林秀雄流神がかりぶりを示したところで、ああどれほど学識はあっても「魂」とか言い出すようではだめだと思い読み進むとやっぱり本居宣長を持ち出しての天皇制礼讃になっていくのであった。「国民の歴史」は面白かったんだがね。「諸君!」連載。なお徳川時代については学問の話ばかりで徳川期文化のことはほとんど触れられていない
水村美苗「見合いか恋愛か」について
水村美苗の「見合いか恋愛か」という漱石『行人』論は、文学研究者の間でやたら人気が高く、最近もある著作の中で(藤森清『三四郎の駅弁』)唐突に出くわしたので改めて書いておくがあれは間違いである。
水村は『行人』の一郎が、見合いで結婚したのに妻に恋愛を求めていると言い、恋愛結婚ではないのだから相手を恋する義務はない、と言うのだが、恋愛結婚だってそんな義務はない。ないどころか、恋愛を基礎として結婚する以上は恋愛が消えたら離婚すべきかという議論さえ大正時代にはあり、与謝野晶子なんかは恋愛なき結婚は不義であるとまで言い、じゃあ自分はどうしていたかといえば生涯与謝野鉄幹(寛)に恋していて、自分も恋されていると思い込んでいたのである。
水村はのち『母の遺産』で、恋愛結婚したらしい夫が浮気する様を描いて、自らこのテーゼを否定するが、日本近代文学者から英文学者まで、水村テーゼはやたらと人気があり、私は「?」と思っていた。しかしなんでこんな杜撰な論を提示してしまったのだろうと思うと、水村という人は、これを書いたら受ける、というものが書ける人らしく、「日本語が滅びるとき」だって、私は一読して焦点のボケた本だなと思っていたら単行本になったらベストセラーになり小林秀雄賞までとったのだから、やや魔女的なところがある。あるいは純文学界の山崎豊子とでも言おうか。
人の名前を笑いものにしてはいけない
『進撃の巨人』にオニャンコポンというアフリカ系の名前の人が出て来るが、私は最近ようつべで昔の「トリビアの泉」を観ているが、今ならありえないだろうというようなセクハラな行いも見られる。中で、ガーナのサッカー協会の会長の名前がニャホ・ニャホ・タマクローだというネタがあって、今は亡きやなせたかし、さくらももこらに名前から想像される絵を描いてもらい、出演者はゲラゲラ笑い続け、私は見ていてものすごく不快になった。
https://www.youtube.com/watch?v=bCXlcDZLixo&t=313s
私には、人の名前を笑いものにしてはいけないという倫理があるものと思っている。15年くらい前か、井上はねこという人を提訴した時、後輩の某君に電話でその話をしたら「はねこ」という名前だけで某君は「はねこ、何ですかそれは、ゲラゲラゲラ」と笑い転げたのだが、そんなにおかしいか? 高山羽根子というのもいるが誰も笑ってはいない。某君は電話で聞いただけなので、平仮名だからおかしかったというのでもない。
どうもこのテレビ番組を見ていると、ニャホ・ニャホ・タマクローを同じ人間だと思ってないんじゃないかというところがある。やはり昔はこういうことがまかり通ったということなんだろうか。
女は残酷趣味?
「オール読物」で直木賞の選評を読んでいたら、「テスカトリポカ」の評価について選評で論争をしているような趣きがあった。中でもちょっと怖かったのは三浦しをんで、その残酷描写への批判に対する「反論は、『ジョジョの奇妙な冒険』の名言「お前は今まで食べたパンの枚数を覚えているか?」に尽きる」として、残酷なことが行われているのは事実であり、それを描写し、それを行った者は滅びているのだからいいのだ、と書いている。説明はともかく、「ジョジョ」というのは私は最初のほうを読んだだけで、この「名言」がどういう文脈で出てくるのか、またその意味もよく分からず、むしろ三浦しをんの熱情のほとばしりに恐怖を感じた。
残虐趣味について、道徳的にどうかという選考委員がいて、それへの反論があるのだが、私は単に、残酷描写を読むのが苦痛だったというだけで、ただそれでは作品への批判にならないから、道徳的云々と言っているだけで、話がかみあっていないだろうと思う。
私も20年くらい前に、タランティーノの映画の残酷描写に辟易して、二度と観たくないと書いたことがあるし、金原ひとみの「蛇にピアス」も、痛そうで初見の時に読み通せず、『芥川賞の偏差値』を書いた時に改めて読んだが、まあ二度読みたいとは思わない。
これが一般人なら、「残酷描写は観たくない/読みたくない」で済むのだが、作家(詮衡委員)や文藝評論家となるとそれでは済まなくなるというのが実情である。『テスカトリポカ』はノワールと言われており、私はノワールというのは好きではない。もっとも私が選考委員として秤量することになったら、自分の好き嫌いは棚に上げるが、三浦しをんのような熱量をもって評価することはあるまい。
しかし英文学者の北村紗衣がタランティーノのマニアだったり、『テスカトリポカ』を絶賛するのが豊崎由美や三浦しをんや林真理子や桐野夏生であり、擁護するのが宮部みゆきで、疑問を呈するのが浅田次郎や伊集院静や北方謙三であるというのは(高村薫は否定的)女は残酷趣味なんだろうかと思ってしまう(山周賞でも三浦しをんと江國香織が絶賛しているがこちらは今野敏、荻原浩ら男も賞賛している)。うちの妻もアート系キチガイ映画が好きで、私は韓国の「お嬢さん」とかいう気持ち悪い映画を観る羽目になってしまった。