偉大なる通俗作家としての乱歩--そのエロティシズムの構造

 偉大なる通俗作家としての乱歩--そのエロティシズムの構造
                             小谷野敦
 江戸川乱歩・本名平井太郎は、一八九四年の生まれである。このことは、二十代がまるごと、僅か十五年の大正時代に収まるということを意味する。芥川龍之介は二歳年長、久米正雄は三つ、室生犀星は五つ上だが、この世代が、大正の文化に触れながら青年期を送った世代であることに注意したいと思う。大正期こそは、昭和につながる様々な「文化」を醸成した時代だったからである。和洋折衷の「アッパー・ミドルクラス」が形成されたのも、この時代である。久米は、大正五年末に夏目漱石が没した後、その長女筆子に「恋」をするが、結局筆子は松岡譲と結婚し、久米は失恋する。いわゆる「破船」事件だが、その「恋」に、良家の令嬢というものへの憧れがあったことは、当時から友人の菊池寛などに指摘されていた。同じ頃、年齢的にはまだ二十歳で、『地上』一作で天才と呼ばれた島田清次郎は、堺利彦の娘・真柄との結婚を夢想して断られ、後には海軍少将の令嬢への監禁・強姦の容疑で訴えられ、これで社会的に葬られるが、久米にせよ島田にせよ、父を早く亡くし、貧しい育ちである。それが、東京へ出てきて、立派な社会的地位を持つ父に庇護された良家の令嬢に憧れをもったのだ。犀星も、大正前期、上京して失恋の痛みを経験しつつ、住宅街でピアノの音が聞こえてくると、自分の娘もこんな家でピアノを弾くように育てたいと夢想するような詩人だった。
 乱歩もまた、名古屋に育ち、十八歳の時に父の事業が失敗し、苦学生として早稲田を卒業、二十五歳で結婚するが、貧苦を嘗めた。さらに年長の谷崎潤一郎も、十六歳の時に父の事業が失敗して苦労しているが、そのことは、谷崎が乱歩の直接の先駆者であることと無縁ではないだろう。谷崎が高貴な女性への崇拝をマゾヒスティックに描き、乱歩が良家の令嬢・令夫人の受難をサディスティックに描いたのとは、同じ指向性の表と裏の関係にあることは間違いあるまい。乱歩は若い頃、大正五年に谷崎の『金色の死』がポオの「アルンハイムの地所」の系譜に連なることに気づいて感銘を受けているし、大正十五年の『闇に蠢く』に、「ある小説家は美人の素足を崇拝したが」とあるのはもちろん谷崎のことだ。特に谷崎が大正九年に発表した短編「途上」について乱歩は、探偵小説の先駆として論じている(「日本の誇り得る探偵小説」『新青年』一九二五年八月増刊号)。ただし後に谷崎は、江戸川乱歩君が「途上」を探偵小説として褒めてくれており作者として嬉しくもあるが、あれは探偵小説ではない、と書いている(「春寒」『新青年』一九三〇年四月)(横井司「谷崎潤一郎の『途上』を読む」『文研論集』九一年九月)。これほど近い性向を持っていながら、谷崎と乱歩にあまり交渉がなかったらしいのは、一面不思議だが、恐らく乱歩登場の頃、谷崎は既に若いころの西洋趣味を抜け出しており、飽くまで純文学作家を指向していたからでもあろうが、私はむしろ、乱歩の初期短編は、大正期の谷崎の探偵小説風のものを洗練させたものになっており、谷崎が乱歩に対して「影響した者の不安」を感じていたからではないかと考えている(拙著『谷崎潤一郎伝』中央公論新社)。たとえば『パノラマ島奇談』は、谷崎の『黄金の死』を遥かに洗練させた娯楽小説で、谷崎は乱歩のこの作品が登場して以来、『黄金の死』を単行本や全集に入れるのをやめてしまい、「嫌いだ」と名言するようになっている。萩原朔太郎は乱歩登場の際に賛辞を呈しているし、三島由紀夫はその『黒蜥蜴』を劇化しているが、乱歩と谷崎の交渉の形跡はない。ただし乱歩が昭和四十年七月二十八日に没し、谷崎はその二日後に没しているのは奇縁である。その年の暮れ、日影丈吉が、乱歩を耽美主義の作家として論じ、谷崎にも説き及ぶエッセイを書いているが(中島河太郎編『江戸川乱歩--評論と研究』講談社所収)、「潤一郎との比較も、やや通りいっぺんのような気がする」と書いている。
 乱歩が華々しく作家として登場した大正十四年の「人間椅子」は、乱歩作品におけるアッパ・ーミドルクラス女性とそれへの「犯し」のモティーフが、トリックの影に隠れて見える。乱歩の女性観のようなものを扱った評論は、あまり見当たらない。確かに、事件に巻き込まれる、あるいは中心人物として登場する美しいヒロインは、類型的だし、乱歩といえば、男色研究に手を染めており、明智小五郎と小林少年の関係がいかにも少年愛らしいので、乱歩はむしろ同性愛的な性向を持つのではないかとされてきた。しかし、この世代においては、中学生間の男色は一種の流行であった。男色研究にしても、単に好奇心からやっていたようである。乱歩における男女関係を論じたものとしては、横井司の論文「恋する〈蜘蛛男〉--江戸川乱歩通俗長編考」(『専修国文』九三年一月)が興味深い。横井はここで、乱歩の長編小説といえば、概して評価は低く、いかにも通俗とされてきたとして、再評価をはかっている。
 良家の令嬢や令夫人が、好色漢の手にかかってあわや落花狼藉、という筋立ては、大正末期以来、加藤武雄、中村武羅夫菊池寛らの「通俗小説」が盛んに用いた手であって、乱歩も、これを取り入れている。ただ違うのは、加藤、中村らの小説、いやそれに限らず、当時の「大衆小説」が、ほどなく読まれなくなったのに対して、乱歩の作品だけは、延々と読み継がれてきた、という点である。とすれば、現代日本の「令嬢凌辱」やら「人妻輪姦」の類のポルノ小説は、その淵源を乱歩に持つのではないかと考えてもいいのではないか。たとえば、『蜘蛛男』の第二の被害者里見絹枝が、江の島の水族館で、水槽の中に全裸死体となって漂っている場面のエロティシズムは鮮烈だった。乱歩はほかにも、全裸美女が氷づけになっている、といった場面を『吸血鬼』(昭和五年)で用いている。むろんこうした趣向は、時代のエロ・グロ・ナンセンスに連動するものだが、その中で今日まで残ったのが乱歩だけであるということを重くみるべきだろう。こういった、探偵ものプラス冒険ものプラスエロティシズムが、乱歩の本領であり、時代を超えて残るものを持っていると言えるのではないか。松山巖の『乱歩と東京』(一九八四、のち双葉文庫)以来、乱歩論はやや「純文学」風に読まれ過ぎてきた。つまり、先のポオ-谷崎の系譜に連なる『パノラマ島奇談』、異常性愛を扱った『押絵と旅する男』、「覗き」を扱った『屋根裏の散歩者』などが論じられることが多かったのだが、昭和の大衆文化への寄与という点では、『一寸法師』『蜘蛛男』『魔術師』『吸血鬼』『黄金仮面』の系列の、犯罪鬼と明智小五郎の対決に、美女がからむという趣向こそ、最も評価されるべきものだろう。乱歩自身は、こうした通俗長編を頻りに恥じてみせ、それが今日の低い評価につながっていると横井は言うのだが、それは飽くまで批評家・研究者の世界でのことである。「通俗」が一流であるか否かを決めるのは、一般読者であって、昭和初期に盛んに書かれた時代小説・恋愛小説・探偵小説のうち、脈々と読み継がれてきたのが吉川英治江戸川乱歩であることは否定しようがなく、それをもって十分に偉大なる通俗作家と言いうるのではあるまいか。たとえば、一九七七年から八四年まで、テレビ朝日系列の「土曜ワイド劇場」で二十五本が放送された、天知茂明智に扮する乱歩シリーズ(十九本目までが、かつて『黒蜥蜴』を映画化した井上梅次監督)など、時に女優の裸を売り物にするような趣きがあったが、それこそ偉大なる通俗作家としての乱歩の本質を捕らえた、優れた映像化として正しく評価されるべきではないか。もちろん、それは俗悪である。乱歩自身が、自分の作が通俗であることを恥じるのは、生身の人間としてやむをえない。だが、享受者の支持をもっと信用してもいいのではないか。
 乱歩は、そのペンネームが示すように、エドガー・アラン・ポオに私淑していたことになっている。だがポオらしいのは、せいぜい初期の「二銭銅貨」「赤い部屋」のような短編で、長編は既にポオから離れている。かといってシャーロック・ホームズでもない。ホームズはやはり短編の本格ものが中心である。昭和五年から翌年にかけて『キング』に連載された『黄金仮面』は、その怪盗の正体をアルセーヌ・ルパンにしている。ルブランのルパンものの日本への紹介は、大正元年の三津木春影訳『古城の秘密』に始まるようだが、大正七年には、ルパンもの初期の代表的訳者・保篠龍緒による『怪紳士』が出ている。乱歩は英語はできたがフランス語が読めたとは思えないから、翻訳で読んでいたのだろう。『黄金仮面』には、人を殺さないとされるルパンが殺人を犯したことを明智咎め、ルパンが、自分はモロッコ人を三人殺したことがある、日本人は殺して差し支えないと、白人の偏見を露わにして明智を激怒させる有名な場面があるが、ルパンがモロッコ人を殺すのは『虎の牙』においてだ(ただしこの部分が削除されている版もある)。この作は大正十年に保篠訳が出ているから、乱歩はこれを読んだか、昭和四年に改造社から出た佐々木茂索訳を読んだか。またルパンと明智の対決の場面でこれを「巨人と怪人」と書いているのは、『ルパン対ホームズ』を保篠が『怪人対巨人』と訳したのを意識してのことだろう。昭和十一年から登場する怪人二十面相は、明らかにルパンを模したもので、剽窃まがいの場面設定もある(当時としては外国のものを剽窃するのは普通に行われていた)。乱歩の長編通俗小説は、名探偵明智が、連続事件を引き起こす謎の怪人と対決するというパターンをとっており、それは結果的に、基本パターンがたちまち出尽くして、『恐怖王』(昭和六-七年、『講談倶楽部』)のような失敗作をも生み、以後は類型化が甚だしくなってゆくのは否めない。
 しかし、欧米のミステリーの中に、乱歩のような作風を見つけるのは難しい。乱歩作品では、一つか二つの殺人が、しかるべき動機を伴って行われ、いかにも普通そうに見える人々の中から探偵役が犯人を見つけ出すわけではない。犯人というより怪人と言うべき男たちの動機は、性欲や失恋であり、恋の満たされないこの世への怨念である。だから、標的となるのは美しい女である。強いて言うなら、『嵐が丘』のヒースクリフが、禍々しい姿とともに現れるようなものだ。黄金仮面など、ルパンなのだから、盗みを主としなければならないはずなのに、冒頭近くでは鷲尾侯爵の令嬢、十九歳の美子が登場して、入浴姿が描き出される。これなど、現在の推理ドラマに、女性の入浴シーンが必ず挿入される、その淵源だろう。この美子が浴場で全裸のまま殺されたかと思うと、次に現れるのは大富豪・大鳥喜三郎の令嬢で二十二歳の不二子、女学校を出たあと二年間欧州へ留学した「たぐいなき美貌」の持ち主で、これが黄金仮面ことルパンの、日本での恋人になり、結局ルパンは不二子誘拐でも企てているような結果になり、明智が最後に救い出すのはこの不二子なのである。『蜘蛛男』(昭和四-五年『講談倶楽部』)となると、もはや美しい女を攫っては凌辱して殺してしまう色情狂で、冒頭、美術商稲垣と名乗る男、実は怪人蜘蛛男の、十七、八歳の女事務員募集に応じてやってきた里見芳枝は、いきなり怪しい家に連れていかれる。「芳枝は決して貞操を無視するほどあばずれではなかったし、こんな場合、普通の娘がどんな態度をとるものだかも、充分心得ていたけれど、利口なだけに、今さらどうもがいてみたところで、なんの役にも立たぬことを、早くも悟ってしまった」。「あわや小説」ならば、あわやという所で娘や人妻の貞操は守られるのだが、乱歩はいともたやすく娘の性を怪人の餌食にしてしまうのである。「それから数時間もたった真夜中ごろ、同じ空家の奥座敷に、里見芳枝は、まるで傷ついた闘牛のように、虫の息に疲労したからだを、グッタリと投げ出していた。脱ぎ捨てられた着類、みだれた頭髪、血のにじんだ肉体、すべてが、仮名稲垣氏の飽くなき残虐を物語っていた」というあたりは、いかにも通俗ながらエロティックである。乱歩のこういう所は、同性愛どころか、れっきとした異性指向のサディストとも見えるが、実はそれあってこその乱歩であり、日本の一般読者が読み継いできたゆえんでもあるのだ。
 さて、その方向性は、時に計算違いを生む。大正十五年(昭和元年)から翌年まで『朝日新聞』に『一寸法師』を連載した後、乱歩はその不出来に嫌気がさして鬱状態に陥り、作家廃業すら考える。中井英夫は『闇に蠢く』とこの作について「乱歩としては上等といえないトリック仕立てが、もともと畸型児を主人公とした物語に合う筈もなく、これもこじつけのこしらえ物としか見えなくなったと思われ、本格変格いずれとも定めかねた乱歩の(略)迷いがすでにこの二作に充分すぎるほど籠められていた。変格でよかったのである」と書いているが(角川文庫版解説)、『一寸法師』の場合、もう少し深刻な事情がある。いかに新聞連載とはいえ、乱歩もそれなりのプロット構成はしていたはずだが、思わぬ計算違いが起こったのだ。ここでは、土地会社重役・山野大五郎の娘・三千子十九歳の失踪事件が中心になっているが、怪しい人物は謎の畸型・一寸法師と呼ばれる男である。だが本作のヒロインとも言うべきなのは、三千子というより、その継母の百合枝・三十歳で、始めに登場する小林紋三という男は、山野氏の同郷の後輩で、百合枝に密かに想いを寄せている。ところが三千子失踪の後、百合枝はこっそり、怪しい男と密会をするようになる。この男こそ、生まれついての畸型・一寸法師で、特製の義足によって普通の身長に見せかけ、養源寺の住職をしているのだが、三千子失踪事件の鍵を握っていて、百合枝を脅迫している。ところがこの男は、十年前から山野家へ出入りしていて、まだ先妻が生きていた頃から百合枝に恋着していたのである。「百合枝さん。ああ、今こそおれはこうしてあなたに呼びかけることができるんだ。恋人のように呼びかけることができるんだ。十年のあいだ、おれは胸のうちでこの名を呼びつづけていた。どうしたって出来るはずがないとわかっていても、その望みを捨てることができなかった。だが、今それが叶ったのだ。まるで夢のような仕合わせだ。百合枝さん、私を愛してくれなんて無理なことは頼まない。この不幸な生れつきの男を、憐れんでください」と切ない声でかきくどき、灯を消して百合枝に迫って、体を撫でさすりながら涙をこぼすのである。その時百合枝は、少しの間、この男の恋情の告白に心を動かされるのだが、闇の中で、彼が畸型であると知ってたちまちその念は消えておぞましさに戦く。だが、結局、一寸法師はこの時もその後も、弱みにつけこんで思いを遂げるのである。
 計算違いというのは、筆に任せて乱歩がこんな涙を流しながらの恋の告白をさせてしまったことで、そのあと百合枝が、三千子がとんだ淫蕩な娘で、それを知った山野が折檻して死なせてしまい、死体の始末を養源寺の住職に頼み、その弱みから脅迫されていた、と告白し、さらに明智が、死んだのは実は三千子ではなく、山野の私生児で小間使いをしていた小松である、とトリックを明かし、実は男との三角関係で小松を殺したのは三千子なのだが、明智が三千子に情けをかけて、全ての罪を、逃げる途中に煙突から落ちて死んだ一寸法師に負わせる段になると、その場に山野大五郎がいない不自然も、百合枝が、夫が三千子を殺したと思い込んだ理由もよく分からない。しかも明智は、一寸法師は殺人、泥棒、火つけと悪事の限りを尽くす地獄から来たような悪党だと言うのだが、それがいかにも取ってつけたようで、読者の知るかぎりでは、一寸法師は十年来の恋から山野夫人を脅して思いを遂げただけであり、むしろ三千子こそ、恋の争いから異父妹を殺した犯人なのだから、まるで善悪が入れ違っていて、結局畸型であることが全ての悪のもとであるかのような、変な小説になってしまっているのである。
 醜い小男の恋という主題なら、明治二十八年の広津柳浪「変目伝」があるし、更に一八三一年のユゴー『ノートル・ダム・ド・パリ』がある。これらは同情の対象だが、乱歩は凶悪な犯罪者対明智という枠組を固守したために、飽くまで犯罪者の死をもって物語は終わるけれど、一寸法師は冤罪を着せられるし、横井が論じるように、蜘蛛男が明智によって縛り上げられた時、女優で蜘蛛男の被害者でもある富士洋子は奇妙な感情に襲われてその縄を解いてしまい、蜘蛛男から「君が心の奥で僕を愛していたからです。君自身でもわからない君の心が僕を愛していたからです」と言われて「洋子にはそれが全くうそでもないように感じられた」と言うのである。『吸血鬼』の犯罪の動機も、狙われた畑柳倭文子と一時は同棲していながら残酷に捨てられた兄の復讐のためであって、弟は倭文子の恋人になって復讐の機を狙いつつ、いつしか倭文子を愛していたのではないかと横井は言う。犯罪の動機が恋愛であることは、推理小説では珍しくない。だが乱歩のそれは、単に恋愛沙汰から殺人が起こるだけではなく、一人あるいは複数の美女をめぐって怪事件が起こる内に、明智も、読者も、否応なくそのヒロインに惹きつけられていくという構造を持っているのだ。そのプロトタイプとも言うべき作品が、ウィリアムソンの『灰色の女』を明治三十年代に黒岩涙香が『幽霊塔』として翻案し、昭和十二年に乱歩が再び同題で書き直したもので、私は少年時代に夢中になってこれを読みつつ、明らかに作中のヒロインに恋をしていたことを鮮明に覚えている。これは源流を辿れば、十八世紀末の英国ゴシック小説に行き着くが、ジョージ・スタイナーは『トルストイドストエフスキーか』(邦訳、白水社)で、ドストエフスキーがこの種の通俗ゴシック小説にどれほど影響を受けていたかを論じ、特に女性登場人物に対する視線が嗜虐的傾向を持っていると述べている。
 その歴史的背景として、十八世紀末以降の西欧と、大正以後の日本における、侯爵、伯爵、実業家といった上流、ないしはアッパー・ミドルクラスの令嬢、夫人といった、洋館に住むような女性への、市民階級、ロウワー・ミドルクラスの男たちの憧憬があるだろう。ジョン・ファウルズの『コレクター』も、そのような文脈で読まれるべきなのである(新井潤美『不機嫌なメアリー・ポピンズ』平凡社新書、二〇〇五)。十年ほど前、日本で「お嬢様ブーム」なるものがあったことは、こうした視線が今なお生きていることを示しているだろう。乱歩の通俗長編は、こうした、ロウワー・ミドルクラス、ワーキングクラスの男たちの欲望の中心を射抜くように刺激するのであり、それが、乱歩作品が読み継がれてきた理由なのである。「土曜ワイド劇場」の支持者たちも、やはりこうした階層の男たちだっただろう。だが近年の映画『RAMPO』にも、久世光彦の『一九三四年冬--乱歩』にも、乱歩を純文学的にばかり見ようとする嫌いがあって、久世が偽作して挿入した「梔子姫」も、乱歩の文章としては上品に過ぎる。醜い男、貧しい男たちの、美しい上流の女たちへの、怨恨を込めた憧憬こそが、乱歩小説の中核にあるものなのだ。俗悪で、しかし魅惑的な世界が、江戸川乱歩の本領なのである。(国文学解釈と鑑賞臨時増刊号・江戸川乱歩と大衆の世紀・2004年)