「翻訳学」は存在しない

 12月に徳島の文書館で先輩の杉田英明さんと公開対談をする予定だったのだが、コロナで行けなくなり中止になった。

syougai.tokushima-ec.ed.jp 明治の翻訳家・井上勤についての話だったが、あまり井上について訳書以外のことは分かっておらず、どうなるのかとは思っていたが、私は「翻訳学」というのは存在しないという話をするつもりでいた。

 佐藤ロスベアグ・ナナという学者が盛んに、西洋にはトランスレーション・スタディーズというのが定着しつつあるが日本ではまだであると言っているのだが、それらを見てみても、単なる翻訳という技術とその周辺、つまり翻訳家列伝とかそういうものでしかなく、単独の「学」になっているとは思えない。教育学とか経営学とか語学とか、もともとは技術の習得だったものがいつしか学になるということはあるが、私は教育学とかいうのが学問かどうか疑わしいと思っている。

 それと嫌なのは、翻訳というのは文化の越境である、それは可能か不可能か、みたいな評論を展開する人がいることで、こういう人は本当は戦争はいけないとか異文化に寛容に、みたいな政治的プロパガンダを、学問の名を借りておこないたいだけなのである。翻訳は「フィネガンズ・ウェイク」みたいに不可能なものから、普通にできるものまでいろいろある、というだけのことである。そしておおむね、生成文法を参照していない。

 日本通訳翻訳学会というのがあるが、これはもとは日本通訳学会だったもので、通訳と翻訳は全然違う営みだし、通訳学会は通訳の技術的問題の情報交換の場として存在したものである。

小谷野敦