栃野の世界(2)

 ある意味で、クラスの大部分の生徒からハブにされた栃野は、私や大川、あと生徒会長に立候補して当選してしまった清見原などと話すようになった。清見原というのは、それほどの人格者というわけではないが、私や栃野と一緒にいても、窪木から狙われないというそういう位置どりのできる男だった。ほかにもそういう、いじめっ子にもいじめられっ子にもならない、という立ち位置を確保できる生徒というのはいたが、大人になっても、そういうことのできる人というのがいて、今なお、とても真似できない、と感じる。
 大江健三郎は、ヴァルネラビリティという言葉を「いじめられやすさ」と訳したが、ヴァルネラブルというのは弱さ、脆弱さで、私ならともかく栃野には当てはまらない。栃野は、現代の言葉を使うなら、自分が陽キャだと信じているが実はそうではない、という、自己認識と他人からの認識のずれた男だった。
 この学校では、二年生になる段階で文系と理系を分けた上、文系は国立を目ざす文Aと、私立へ行く文Bに分けられるのだが、当時クラスで十九番などという成績だった私は、担任から文Bを勧められたが、文Aを希望した。秋になって、生徒が一人一人、担任に呼び出されてこの振り分けの相談をした。私が呼ばれていた日、小さく丸められた紙が誰か生徒から渡された。書いてあったのは栃野の悪口で、「トチノ。誰からも相手にされず、藤井とか大川とか気の小さいやつに相手してもらって自慰している」と書いてあった。私はむかっとして、その紙を捨てた。
 担任は体育準備室という、本館とは別に建てられた、当時はまだ小さい建物にいたが、私はそのむかっ腹を抱えて、放課後そこへ行き、担任の前に座った。担任は私に、私立進学コースへ行くよう勧めたが、私は国立へ行きたいと言い張った。ちぐはぐなやり取りが続き、私はそもそも、一年生の秋ごろにどこの大学へ行くか決めるなどということをバカバカしく思っていたから、その気持ちの通りに返答していた。すると担任が突然、
 「お前は誰に向かって話をしとるんだ!」
 と、腹の底からの怒鳴り声をあげた。十五歳の私はびくり、としてそのまま背中を椅子の背に張り付かせた。
 担任は、私の態度が悪い、なっていないということを二、三分怒鳴り続け、
 「だからお前は嫌われるんだ」
 と言った。
 「改めえ!」
 と言って説教は終わった。ふらふらと外へ出た私は、旧式の便所へ入って、気を落ちつけようとしたが、鼻血が出てきて、涙が滂沱と流れてきた。
 怒鳴られているところを誰かに見られなかったかと恐れたが、並川が、「お前、昨日大谷に怒鳴られてなかった?」と訊いてきたから、ぎくっとした私は「なんか、態度が悪いって言われて」と言って済ませた。あとで考えると、特に隠すようなことはなかったのだが。
 そのころ、太宰治を読んでいた私は、「正義と微笑」という中編の中に、聖書から引かれた「汝ら断食する時かの偽善者のごとく悲しき面容すな」という言葉をもとにした「微笑もて正義をなせ」という言葉をもって、自分を叱咤しようとした。
 栃野へのいじめに抵抗する自分を美化し、周囲への配慮を怠っていた私は、これまでもそのように傲慢であったという趣旨の作文をレポート用紙十枚くらいに書いて、中学時代の友人の一人に渡したが、二週間ほどして、彼は何も言わずにそれを返してきた。今ではこの「微笑もて正義をなせ」自体が究極の偽善だと考えている。
 次の体育の時間に「跳び箱」があり、私は難儀したが五段くらいのを飛べた。すると担任の大谷が大げさに、「飛べたよ!飛べたよ!」と言って笑顔でやってきたのは、関係が気まずくなっているのを気にしたのだろう。 
 中学生の時に、男と女で一人称が違うのはおかしい、とか、僕というのはしもべという身分制的な意味だという理由で、私の一人称は「わたし」になっていたが、高校でもそれを使っていた。もっとも「わたし」と言う生徒はほかにもいた。「僕」などと生徒同士で言うのは少なく、「俺」がほとんどだったから、私も「俺」を使っていたと思う。
 それからほどなく、父兄面談があり、母が学校へ出かけることになった。担任に会うわけだから、きっと私の態度が悪いと言われるだろうと怯えた私は、「体育の先生だから私のことはよく思ってないよ」などと言って予防線を張ったのだが、夕方になって母は「大恥かいちゃった」とプンプン怒りながら帰ってきたから、私は青ざめた。やはり、「家でもあんな感じなんですか」などと嫌味を言われたらしい。母は、
 「淳ってお父さんと普通に会話しないでしょう。そこがおかしいんじゃない?」
 などと言っていたが、私と父はそりが合わないのである。それから少しの間、母は私の言葉尻を捕えて、そういう言い方がいけないのよ、と言い言いした。
 二年生になってクラス替えがあったが、その結果を見て私は驚いた。私と大川が一緒なのはいいとして、窪木も栃野もいたからで、いじめっ子といじめられっ子を同じクラスにしたのは、担任に悪意があったとしか思えない。ところで清見原が生徒会長になったのは一年の終わりの選挙の時なのだが、私らのクラスから悪ガキ風のが三人、まるでおふざけのように立候補して、ふざけた演説を行ったあげく、本来は二年生が当選すべき生徒会長と二人の副会長に一年生が当選してしまったという事件があったのだ。その一年後くらいにマンザイ・ブームが起こり、ビートたけしの毒舌ギャグが受けるわけで、シラケ世代を見事に体現していた。その後のことを考えると、私は三年間、一番ふざけたクラスに所属するという不運を抱えていたことになるが、そういう側面を主導したのが窪木だったとは言えるだろう。
 一学期が始まってほどなく、体育の授業で野球のまねごとをしたことがあった。私は運動が苦手で、野球にも興味がなかったが、バッターになったら球を当てることができたので、一塁へ走った。すると敵方の窪木が突然目の前に現れて、「お前、走っちゃいけねえんだよ、走っちゃいけねえんだよ」と顔をしかめながら言ったから、何だろうと思って呆然としていたら、アウトにされてしまった。しかしこういうことをすると、窪木は「悪の帝王」などと言われて人気が出たのである。
 窪木は、「真面目なことを言ってはいけない」という美学を持つ連中の人心を収攬するのが巧みで、二年生になってもたちまち窪木グループのようなものを作り、いじめを開始した。もっともこの時窪木グループにいた一人は、行方という真面目な生徒で、のちに窪木からは離れた。
 七七年結成だから、まだ私らが中学生のころに、黒木真由美、石江理世、目黒ひとみという三人の歌手が、「ギャル」というグループを作って活動していたが、私らが二年生の七九年に解散した。私は窪木が、誰にともなく、
 「『ギャル』ってよお、売れない歌手三人が集まっただけじゃん」
 と二回くらい大きな声で言っていたのを覚えている。当時の私ら男子高校生の世界では、まじめな話がタブーで、この手の藝能ネタを、人をバカにしつつ言うのが定番だったのだが、しかしこれは極端にバカバカしすぎて、窪木としては外した発言だったと思う。
 二年と三年の時の担任は、國學院の大学院で中古国文学を専攻していた的部という人で、現代国語の担当だったから、私には助かった。私らが卒業する時、中国地方の女子大へ赴任していった。
 二年になって同じクラスになった、村川という体が大きく色の白い男がいた。ある時栃野が、
 「おれ窪木より村川のほうが嫌だよ、陰険で」
 と言っていたから、栃野いじめもしていたようだが、窪木とは色合いが違っていた。窪木には完全に善良なところはなく、まったき悪としてふるまっていたが、村川は割と普通であることもあった。
 ある時村川は、新書版ペーパーバックの本の最後に載っている既刊書一覧から、『労働組合入門』といった題の本をさして、
 「これさ、うちの父ちゃんなんだ」
 と言った。脇にいた友達が、
 「へー、お前の父ちゃん、作家なの」
 「バカ、作家じゃなくても本書くことあるだろ」
 などと話していたのを聞いて、私は割と素直に感心したのだが、何十年もたってネットで調べてみると、ある全国労働組織の偉い人だった。
 栃野の事件と関係あるのか、二年になってから、学級委員を投票で選ぶということがなくなり、担任が指名してやらせるようになったのだが、なぜかいつも笹井という、かなりハンサムな男が委員をやっていた。笹井も不思議な生徒で、成績は中程度だが、いじめる側ともいじめられる側とも深く関わらない男で、委員の仕事もそつなくこなしていたが、担任になぜそれが分かったのかは知らない。
 栃野は、「クラス替えデビュー」とでもいうのか、いじめの過去はなかったかのように振舞おうとしていたが、五月か六月ころには、窪木や村川を中心に、いじめられっ子の栃野の位置は確定しつつあった。
 私は一年生の時は、中高一貫校に公立中学から入って授業についていけない劣等生で、両親などは心配して、和光大学のような人間性重視の大学にでも入れるかなどと話していたようだが、一年の時は小説ばかり耽読する文学少年だったのが、二年になって、放課後に予備校に通い、勉強するようになった。その結果、実力テストで学年一位になり、いじめから抜け出すことになったのであった。
 八月には修学旅行で北海道へ七日間行ったが、飛行機で行くか汽車で行くかについて父兄にアンケートをとったが、五月末にシカゴで飛行機の墜落事故があったためか、汽車ということになった。旅行のためにグループを作ることになり、私と大川、清見原に、やはり一年の時同じクラスだった、写真を趣味にしていて賞をとったりしていた背の高い岡村が集まると、そこしか入れてもらえないだろうという感じで栃野も入ってきた。
 その夏は、NHKで、私が高校へ入った時に定期放送が終わった少年ドラマシリーズの一つとして、筒井康隆原作の『七瀬ふたたび』を多岐川裕美主演で放送していたのを途中で、私は出かけ、寝台列車東北線を北上し、青函連絡船に乗ったらみごとに船酔いし、そこへイカ飯など出たから余計ひどくなった。
 トラピスト修道院から、札幌へ行き、ラーメンを食べたらうまかった。ここで一泊、そのあと根釧原野のじゃが芋農場へグループごとに分かれて分宿し、芋掘りを手伝った。その前のホテルで、グループ内でトランプをやって負けた私が「罰ゲーム」として菅原という男のもじゃもじゃ頭に手を置いて「君って頭でかいなあ」と言ったら、菅原にコブラツイストをかけられるという事件があり、芋畑に集まった連中が「藤井ってさあ」と私がつば広の帽子をかぶって芋堀りをしているのに気づかずに話し始めた。笹井が、「いや、藤井ってのは、あれは分からないでやってるから」と擁護していた。翌日、バスに乗ってそのことを思い出したら涙が出てきた。しかし私へのいじめは、二学期になって成績が安定して上位になったことで、なくなった。
 だが旅行中、ホテルに泊まったある日、他グループの悪童連が、夜中に栃野を襲撃するという計画があり、大川や私にそれが前もって知らされていた。大川と、ホントにやるんだろうか、などと懸念しつつ話していたら、本当に夜中に襲撃があった。といっても怪我をするほどのことはなかった。
 どうやら担任の的部は、この事件まで、栃野がいじめに逢っていることは知らなかったらしく、生徒らに、
 「なに? 内部抗争とかあるの?」
 などと訊いていた。
 二学期が始まり、私は男子校の、女といえば食堂のおばさんと保健室のおばさんしかいない環境からの逃避のように、再放送の「キャンディ💛キャンディ」や、高畑勲の「赤毛のアン」に夢中になっていた。その間も、栃野へのいじめはエスカレートしていたらしく、ある朝、登校してきた栃野が、窪木に足を蹴られて、帰ってしまった、といったうわさが流れた。やってきた担任は、
 「お前ら、必要以上に栃野に構うな」
 と言い、
 「明け方の自殺とかいうこともあるし・・・」
 と付け加えた。その日の学級日誌には「栃野が自殺するそうだ」と書かれていた。
 三年生の時だったか、他のクラスで自殺者が出た。ふだん教えていない数学の教師がそれを伝えに来て、何か口ごもったのを私が笑ったら、そばにいた浦野という生徒が、「笑いごとじゃないよ、自殺だよ」と言った。この浦野というのは二年から一緒になったのだが、はじめ窪木がどういう男か知らず、窪木のグループに入っていたが、善良で明るい男だったから、その後窪木からは離れた。とはいえ私は内心で、何が笑いごとじゃないだ、とせせら笑った。当時は日本史の教師いじめをやっていたが、栃野いじめをあれだけやっているクラスでそんなことを言うのが笑止千万だったからだ。
 ずっとあと、四十歳くらいになって、高校時代いじめに逢っていたことを言うと、中に、なぜ登校拒否にならなかったのかと言う人がいたが、私も栃野も、そういうことはしなかった。やはり進学校だから、そういう選択肢がなかったのか。授業をサボる、という行為もなされなかった。

(つづく)