書評 日比嘉高『プライヴァシーの誕生』             

(以下は「週刊読書人」のために書いた書評だが、褒めていないというので没になったものである)
 三、四年前、川端康成が、若いころの失恋の相手「ちよ」に宛てた手紙が発見され公開された。その際ネット上で、こんな昔の恋文を公開されるなんてかわいそう、という声があったことに私は衝撃を受けた。半世紀近く前に死んだ作家にそんなことを考えるのかと。
 本書は、副題が示す通り、日本近代文学において、モデル問題のためトラブルとなった事例を論文的に紹介したものである。内田魯庵の「破垣」にはじまり、島崎藤村の『新生』その他、久米正雄『破船』と松岡譲『憂鬱な愛人』、『講談倶楽部』のスポーツ実録もの、そして戦後の三島由紀夫『宴のあと』、高橋治『名もなき道を』、柳美里石に泳ぐ魚』と、プライヴァシー侵害として提訴されたものを扱っている。残念なのは、臼井吉見の『事故のてんまつ』、福島次郎の『三島由紀夫 剣と寒紅』が論じられていないことで、これらは、文学者の遺族が文学の「敵」になった事例である。あと著者は、死者の名誉毀損について判断した七九年の城山三郎『落日燃ゆ』の判決を見落としているのではないか。ついでに言うと、『石に泳ぐ魚』の発表を九月としているが、あれは八月七日発売の九月号である(法学系の学者が間違えたのは見たことがあるが文学研究者が間違えるとは思わなかった)
 そもそもプライヴァシー侵害は小説でなくノンフィクションやエッセイ、週刊誌記事でも起こりうるが、日比はあえて小説に限定したという、その理由も書いてあるが、時に小説とノンフィクションの区別は曖昧である(柳美里の『命』シリーズや吉村昭の後期小説)
 藤村の『新生』について、モデルとなった姪・駒子の未来を憂える批評が当時なかったとあるが、近松秋江は書いている。また『新生』と三年後の駆け落ち未遂の時までは、藤村は駒子との結婚を考えていたと思われ、書きっぱなしで放置するつもりではなかったろう。なお『破船』事件について、著者は関口安義の『評伝松岡譲』を参考にしたと書いているが、参考文献には私の『久米正雄伝』もあがっている。関口は過剰に松岡側に肩入れし、久米が松岡を悪役として描いたとしているが、これは引用文が不適切で、松岡が「悪人」だと言われたというのも、『法城を護る人々』で浄土真宗を批判したからではないかと私は推測しておいたが、日比はこの指摘に反論するわけでもなく無視しているので、抗議する。
 大衆は法にあわせて倫理を形成する。売春防止法もそうだが、個人情報保護法とか健康増進法によって倫理意識が変化する。そして私小説が書きづらくなった、それを決定づけたのが『石に泳ぐ魚』の最高裁判決である、という筋書きだ。日比はあとがきで、自分は噂話やゴシップに関心がないと書いているが、それは全体から伝わってくる。ゴシップ記事などに触れる時、何か汚らわしいものに触れるような吐き捨てるような口調になるのだ。だが小説というのは、『カンタベリー物語』や『デカメロン』、十八世紀西洋を見れば分かるが元来ゴシップ的なもので、日比はそもそも文学研究に向いていないのではないかとさえ思える。本書の読後感は悪く、それは日比が明らかに私小説的なものを嫌悪しているからで、おざなりに擁護するような言説が出てくるが、それがおざなりだと分かってしまうのだ。それなら作りものの恋愛小説や推理小説でも読んでいたらどうかと言いたくなる。
 『名もなき道を』を論じたところは、原告が何を不満として提訴したのか分からない。そこで日比は「藝術性」を評価軸としたいと言うが、裁判所が提示する藝術性とは、事実と切断されて虚構へ昇華されたものだという。だが私小説や事実小説は、事実の重みで藝術性を保持しているのだから、これではまったく逆になる。一般的な名誉毀損訴訟では、真実性が違法性を阻却することがあるのだが、日比はここのところは突っ込んでいない。「書かれる側の痛み」と言いつつ、「蒲団」に描かれた岡田美知代がどのような害を被ったのか、著者は自明であるかのように論じていない。これは本書の大きな欠陥であろう。美知代は、恋人・田中の描き方について苦情を言っているが、描かれること自体については言っていない。著者は、小説のモデルにされるのは迷惑だという俗情と結託しているのではないか。
 「現代ではアウト」といった言い方の、問答無用な感じが私は嫌いなのだが、日比が「書かれる側の痛み」という時、実害があるならともかく、「蒲団」のようなケースについて、私は最後のぎりぎりのところで同意することはできなかった。プライヴァシーというのは、小市民的な道徳で、文学者やノンフィクション作家は、それと背馳しても事実を書き残したいという情念を持っており、これは結局氷炭相いれないものなのだろう。そういう意味では、江藤淳が妻を思ってオナニーすると書いた手紙を公開した平山周吉は、私とは政治思想を異にするが、文学の側の人なんだなと思う。帯には「芸術か、プライヴァシーか」とあるが、私は「事実か、プライヴァシーか」という軸で考えている。私が誰かに書かれるなら、ちゃんと事実を書いてほしいと思う。私も私小説を書くし、モデルを怒らせているかもしれないが、提訴されたことはない。仮に提訴されて敗訴したら、それでも私は書きたかったと言うだろう。