音楽には物語がある(13)キマっている歌 中央公論2019年12月

 石原慎太郎が作詞し、山本直純が曲をつけた「さあ太陽を呼んでこい」という歌があり、少年合唱曲として「みんなのうた」で一九六三年に放送された。「太陽の季節」の石原だから、朝がた、太陽を呼び迎える歌になったのだろう。人生の比喩になっているとするのが一般的な解釈らしい。

 私は中学生のころにこの歌を聴いて、いい歌だと思ったが、聴いたことがあるような気もした。しかしだんだん、この歌詞にこの曲というのはあまりにピッタリではないか、と思い、しまいには、何やらもともとこの世に存在したものを掘り出してきたような歌だと思うようになった。音楽としてすばらしい、というより、こういう歌はあってしかるべし、という感じがしたのである。

 この感じは何とも不思議である。世の中にはこれとは逆の、歌詞に無理やり曲をつけたように感じられる歌というのもある。しかしまた、クラシックや歌謡曲で、この「キマった感じ」を感じたことはないのである。

 ほかにそれを感じたのは、「風雲ライオン丸」(一九七三)のエンディングテーマ「行くぞ!ライオン丸」(作詞:中村しのぶ、作曲・編曲:和田昭治、歌:和田昭治とヤングエコーズ)と、「ジャイアントロボ」(一九六七ー六八)のエンディングに歌詞をつけた「ジャイアントロボ・ソング」(作詞:少年サンデー編集部 / 補作詞・作曲:山下毅雄 / 歌:マイスタージンガー)なのである。

 いずれも、私が子供のころ観ていた特撮番組のエンディングで、こんなことを書いていると頭がおかしいか幼児退行しているんじゃないかと思われるかもしれない。なお「ジャイアントロボ」のほうは、当時はインストゥルメンタルしか聴けておらず、あとになって歌詞つきのを聴いてそう思った。

 音楽の専門家にこれらの曲を聴かせれば、ああそういうことね、と解説してくれるかもしれないし、実際解説してほしくもある。

 「ライオン丸」の方は、作品自体が西部劇のパロディで幌馬車で旅をしながら悪と戦う体裁だったから、歌もカントリー風で、それがあるパターンにぴたりとはまっている。「ジャイアントロボ」の方は分からないがこれも何かのパターンなのだろう。

 モーツァルト風の曲というのは、たいていの作曲家が作れるようで、一九七七年頃、NHKラジオ第二放送で流れていた「高等学校実力養成講座 国語」のエンディングに、みごとなモーツァルト風名曲があった。だが世間ではこういうのを名曲と言ったりはしないのだ。あるパターンをうまくなぞっただけの、「芸術家」より「技術家(アルティザン)」的な仕事としか思われない。たまたま私がそれに感心しているだけなのである。

 ところで、最近時おり、文学作品について「完璧な作品」といった誉め言葉を見ることがある。谷崎潤一郎の「春琴抄」など、そんな風に言われることがある。しかし私は別に「春琴抄」が完璧だなどとは思わないし、いかなる優れた文学作品にも「完璧」などという形容が適切だとは思わない。もっとも、浅田次郎の「love letter」などは、先に音楽について言ったような意味でキマっている作品かもしれない。最近の宣伝的書評などで小説を「完璧」などと評しているのを見ると、二重の意味で苦笑してしまうのだ。