音楽には物語がある(2)現代詩 中央公論2019年2月

 小学校高学年の頃、音楽室から合唱曲が聞こえて来ていた。大人になって、あれはいい曲だったなあと思って探したら、子供用合唱曲「トランペット吹きながら」であることがすぐに分かり、それの入ったLPを買った。作詞は詩人の中村千栄子、作曲は湯山昭で、改めてすばらしい曲だと思ってくり返し聴いたものだ。これは一九七二年NHKの「みんなのうた」で放送されたもので、歌詞が「ふるさと SL マンモスの牙」と、特に関連のない単語を並べたものから始まる、いわば「現代詩」的なもので、私は特に現代詩が好きなわけではないのだが、適切な曲がつくと現代詩はいいものだと思った。
 現代詩的な歌詞といえば、小椋佳の「さらば青春」などは、現代詩を広めるのに功績のあった一般曲だろう。これも、田中健が歌って「みんなのうた」で放送されたのが一九七五年だが、これは一九七一年に小椋が出したシングル「しおさいの詩」のB面である。
 私の年代だと、アニメや特撮など子供番組の主題歌が、はっきりその内容に関連づけられたものから、抽象的なものに変化していく過程を経験している。NHK制作のアニメでいえば、「未来少年コナン」(一九七八)が最初だが、「太陽の子エステバン」(一九八二)あたりではまだ内容と関連づけられてはいるが独立しても使える歌になっていた。
 人気アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」(一九九五)の主題歌「残酷な天使のテーゼ」は有名な曲だが、その詞の内容は難解だとされている。しかしこれは、一応ぼんやりと「少年」をイメージして、それらしい言葉を並べただけである。
 ドラマやアニメの主題歌で、内容とほとんど関係のない歌詞のものが出てきて広まったのは一九七○年代後半だと私は考えている。むろんぼんやりと内容に関連づけてはある。そのはしりは、NHKの少年ドラマ「まぼろしのペンフレンド」(一九七四)ではないかと思う。その後も、少年ドラマの眉村卓や光瀬竜原作のSFものにこれが目立った。眉村の「ねらわれた学園」などを原作とする「未来からの挑戦」(一九七七)の主題歌などは、「青春讃歌」の恋の歌みたいな内容とはほぼ関係のないものだった。
 たまたま私が耳にした中では、一九八〇年の夏に、昼の帯ドラマとして放送された「愛の陽炎」の主題歌で、なぜこれを観ていたかというと、原作が川端康成の『山の音』だったからだが、時代は現代に置き換えられていて原作とはまるで別ものだったが、「煙草の煙の糸が心の乱れ教える」で始まる、なかやまて由紀が歌うその主題歌は、それこそただそれらしい言葉を並べただけの、「トランペット吹きながら」や「さらば青春」のような現代詩にはてんでなっていないものだった。同じ年にNHKで放送されていた司馬遼太郎原作の『風神の門』は、霧隠才蔵を主人公としたアクション時代劇だが、この主題歌を当時「大都会」がヒットしていたクリスタルキングが歌った。「時間差」という題で、二人の男のライバル関係を「大都会」風に歌ったもので、しかし「俺は今日から孤独な旅人振り向く余裕もなくしたふりをする」とか、なんで「ふりをする」なのか、妙に分からない歌詞だった。曲は池辺晋一郎だが、作詞は阿里そのみという、「大都会」のB面「時流」を作詞した人である。
 ほかにも「ガンダム」でヒットした富野由悠季のアニメ「聖戦士ダンバイン」の挿入歌で、アイドル歌手の小出広美が歌った「水色の輝き」(三浦徳子作詞)なども意味不明だった。とはいえ、歌手が独立した曲として歌う歌の歌詞にはさほど変なものはなかったから、ドラマ・アニメ主題歌の世界で、ある種の言語実験が行われていたということだろうか。