「野菊の墓」(澤井信一郎)中央公論2016年5月

 森鴎外の「舞姫」は、帰国途中の船の中での回想で、村上春樹の『ノルウ
ェイの森』は、十八年後の飛行機の中での回想で始まる。『野菊の墓』を木
下惠介が映画化した『野菊の如き君なりき』は、数十年後、老人となった政
夫が矢切の渡し舟の上で回想するシーンから始まる。
 『伊豆の踊子』『潮騒』などくり返し映画化されたが、『野菊の墓』はそ
れに比べると三回の映画化で、しかし少年ドラマで竹井みどりの民子で制作
されたのが印象に残る。三度目で最後の映画は松田聖子で、当初はアイドル
映画と思われていたが評価が高い。竹井と松田とで見ると、民子は額の広い
少女が似合うようだ。
 澤井の『野菊の墓』は一九八一年八月公開である。その頃、伊丹十三が主
宰する『モノンクル』という雑誌が朝日出版社から出ていて、そこで四方田
犬彦が、「澤井信一郎の『野菊の墓』を褒めることは、決して現代的でもな
ければ・・・」などといったいかにもな文章で、結局は蓮實重彦流な縦と横の
動きで分析していた。これで私は四方田の奇妙な名を初めて知ったのである。
 「野菊の墓」は、明治期のベストセラーである徳冨蘆花の『不如帰』に比
しても、優れた悲恋小説である。ヒロインが死ぬとかいうことで簡単にバカ
にしてはいけない。構造は単純だが、そこに力強さがある。世間では『春琴
抄』が完璧な作品だとか言う人がいるが、「伊豆の踊子」や「野菊の墓」の
ほうがよほど完璧だと私は思う。
 矢切の渡しは、千葉県のほうへ行くもので、歌謡曲でも知られ、今も観光
用の渡し舟があるという。西側が葛飾柴又である。千葉県や茨城県のあのあ
たりは、私の出身地だが、文化不毛の地で、私が「一本刀土俵入」で嫌な気
分になるのは、あれがそういう土地を舞台としていて、いかにもそういう田
舎臭さを横浜出身の都会人長谷川伸が眺めているという被害意識にとらわれ
からである。
 『野菊の墓』は、しかしそういう土地的な泥臭さとは無縁に美しい。松田
聖子もこの映画ではむやみに可憐である。とはいえ、竹井みどりのほうもも
ういっぺん観たいものだ。