節子の恋(2)

 節子は本所の原庭町の、親子して産婆をしている家の二階に起居し、九月三日に男児を出産した。だが子供は節子がろくに顔も見ないうちに女医が抱いていってしまい、亀戸の先の平井町というところの工場経営者に貰われていった。坊さんが親夫という名前をつけてくれた。母は八月二十六日に男児を産み、姉は九月十四日に出産していた。
 節子の産は難産だったが、それも生活がひどかったためで、節子は産のあと、乳腺が腫れて切開しなければならなかった。父・義雄はフランスの岸本宛に、その手術の費用を送れと手紙を書いた。これは岸本が責任者だからというより、岸本が裕福だったからである。手術は成功し、節子はフランス宛に手紙を書いて報告した。田舎の二階は地獄のようで、万事が金だと書いた。お産のために髪が赤くなり抜けてしまい、叔父さんにこの次会うのが恥ずかしいほどだ、と書いた。節子は高輪の家に戻った。
 父は節子に驚くほど優しくなった。叔父から父に宛てて来た手紙も、そっと節子の机の上に置いておくようになった。それに比して、母の態度は冷たかった。母は相手が叔父であることに気づいていたようであった。父や節子の様子から、それは知れずにいない。それでいて、母の節子に対する態度は冷淡を極めた。男の子たちに向かって、節子を「お姉さん」でも「叔母さん」でもなく、「お婆さん」と呼んだ。
 叔父に出した手紙の返事は直接には来なかった。だが節子は根気強く手紙を書き続けた。叔父のパリ便りは、新聞に出ることがある。節子は夜になると自室へ新聞を持ち帰って、丁寧に切り取り、ノートブックに張り付けた。
 そして岸本に宛てた手紙で、「新聞に載った叔父さまの文章を読むのがこの上ない心の慰めです」と書いた。「叔父さまに別れた頃の季節がまためぐってきて、遠く行ってしまう叔父さまを見送った時の心持がまた帰ってきました」と書いた。「高輪の家の庭先に佇んで品川の方に起る汽車の音を聞いた時のことまでしきりに思出されます」と書いた。
 岸本は自分の心を『伊勢物語』の業平によそえて、「から衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」と新聞への通信に書きつけた。それを見た節子も、同じ業平の「月やあらぬ春や昔の春ならぬ、わが身一つは元の身にして」の古歌を手紙に書いて送った。もとより、恋歌のつもりであった。
 節子の一家で写真を撮り、フランスの岸本にも送った。節子は追って手紙を書き、この写真の自分は幽霊のようなので、叔父さんが何と思うか、と書いた。その気持ちを母に話したら叱られた。母はもしかしたら知っているのかもしれない。
 岸本と一緒にいた時に雇っていた婆さんは、母が上京した時に暇を出した。しかし時々訪ねてくるから、家にある雑誌などを与えて機嫌をとった。この婆やが何か気づいていそうだと思ったからだ。
 岸本が日本の新聞への便りで、故郷の言葉を聞きたい、と書いているのを見て、節子は手紙を書いた。「そんなに叔父さんは国の方の言葉を聞きたくているのでしょうか、しつこく便りをするようですが、国の方の言葉を聞くと思って読んでください」と書いた。岸本の男の子たちが成長して行く様子を精しく書き、「叔父さんに心配を掛けた自分の身も、今では漸く回復して、何事も知らない人が一寸見たぐらいでは分らないまでに成ったから安心してください。勿論見る人が見れば直ぐ分ることですけれど…」「水虫のようなものを両手に煩ってとかく台所の手伝いも出来かねています。相変らず髪の毛が抜けて心細いですけれど」。
 そうしているうちに、ヨーロッパ大戦が起こった。フランスも参戦して、ドイツ・オーストリアと戦いを始めた。節子は岸本の身の上を心配した。そうして、そのことを書いた手紙を送った。すると、岸本から初めて、節子宛の絵葉書が来た。サン・テチエンヌ寺が遠景に見える絵葉書で、上の男の子宛にも別の絵葉書が来ていたが、岸本からの初めての便りは節子を狂喜させた。
 姉の輝子は夫についてロシヤのウラジオストクへ行った。節子はそうした家族の動静を細かに手紙に書いて岸本に送った。以前の浅草の住居の方から移し植えた萩の花のさかりであるということなどに事寄せて、節子が生んだ子供の誕生日の記念のために書いて送った。
 あの絵葉書以降、岸本はもう節子に便りをくれなくなった。大正三年も暮れようとしていた。節子は決心をして手紙を書いた。「あれほど便りをしているのに碌々返事もくれない叔父さんの心は今になって解りました。・・・叔父さんは私を忘れようとしているのですね。・・・そんなら、それでいいです。叔父さんがそのつもりなら私はもう叔父さんに手紙を書くのはよしにします。・・・あれほど自分が送った手紙も叔父さんの心を動かすには足りなかったのかと思うとつらいです。叔父さんのことを思い、子供のことを思う度に、枕の濡れない晩はありません。・・・そんなに叔父さんは沈黙を守っていて、私を可哀そうだと思ってはくれないのでしょうか」。
 節子は泣きながらこの手紙を書き、泣きながら投函した。
 節子にも、縁談が持ち上がった。相手は徳川時代の名高い学者の子孫で、六七十円の月給のある勤め人だった。だが節子は、これを断った。
 「叔父さんが帰るまで待っています」
 と言うのだ。父は苦渋に満ちた顔つきをした。
 岸本の滞仏は三年目を迎えた。大戦を逃れるため、リモージュ疎開していたが、パリに戻ってきた。岸本の友人の有島生馬らは、岸本の旅費を心配して支援会を作り、九○○ルーブルを送金していた。
 節子の父・義雄は、早く帰ってくるよう、岸本に手紙を出した。それは、義雄一家の経済状態が逼迫してきたからで、文筆で稼げる岸本の金を当てにしていたからだ。大正五年三月、岸本はパリを発って帰国することを兄宛ての手紙で告げた。
 手紙が届くと、節子はすぐ手紙を出した。それには、叔父さんのために帰国の旅の無事を祈るということや、男の子たちも丈夫で叔父さんの帰りを待侘びているということや、叔父さんが遠からず国に帰ってこの留守宅の様子を見たらどう思うか、気遣われると書き、「力強い御留守居も出来ないで、ほんとに御免なさいね」と書いた。
 パリを発った岸本は、ロンドンをへて船路を帰国の途につき、七月に神戸港へ着いた。そのことは新聞に出たので分かったが、岸本からは、いつ帰るとも知らせがなく、義雄は二度も東京駅まで出迎えに行った。するうち、ふらりと帰ってきた。髭をすっかり剃っていて、節子は、髭のないお顔もいいな、と思った。
 祖母さんから、岸本がいない間に生まれた男児まで大勢が、何ごともなかったかのように岸本を歓迎した。その晩、岸本は父・義雄と同じ蚊帳の中に寝て、翌日はパリ土産を分配した。節子もその席に座った。
 「まあ、こんなにめいめいへ御心配なすって」
 そう母が言った、その目は険しく光っていた。
 節子の手はまだ治っていなかった。岸本はそれを目にしたか、何気なく訊いた。
 「節ちゃん、手はどうです」
 すると祖母が、
 「あれの手はもう三年越しよなし」
 と言った。節子はあまり物言わず、水虫のようなものを患っている掌を叔父の方へ見せ、自分でもその掌を眺めた。
 「まだそんなに悪いのかね。もう疾くに良くなってることかと思っていた」
 と言って、岸本は母の方を見て、
 「なんでも巴里の方に居る時分に好い皮膚病の薬が見つかりましてね、それを節ちゃんのところへ送ってよこすつもりでした。丁度子供のところへも町の文房具屋で見つけた帳面がありましたから、一ちゃんに一冊、泉ちゃんや繁ちゃんにも一冊ずつ、それにその薬と、それだけを一緒にして国の方へ帰る友達に頼みました。どうでしょう、その友達の荷物は船と一緒に地中海へ沈んでしまいましたよ。敵の船にやられたんですね。友達だけは別の船で日本へ着きましたが、折角の帳面も薬もそんな訳で皆のところへ届きませんでした――惜しいことをしましたっけ」
 こんな話をするにしても、岸本はそれを節子にしないで、母や祖母さんに聞かせるようにしていた。
 岸本が帰ってきたら、と節子は希望を抱いていた。だが岸本は、節子に直接話しかけることを避けた。節子は二、三日してそのことに打撃を受け、憂鬱に陥った。節子は縁側に出て、独りで悄然と青い萩に向い合って、誰とも口を利きたくないという様子をしていた。
 手の病気も、医者に見せたけれどあまりはかばかしいことではなかった。
 ある朝、節子は早起きして、台所でしょんぼりと立ち働いていた。そこへ岸本が来た。あまりに元気のない節子を見続けてきた岸本は、つい、とその脇へ寄ると、首筋か頬か、そのあたりにふと接吻した。節子は、岸本の胸にすがりついて、火のついたように泣き出してしまった。岸本は慌ててその口をふさいだ。
 八月になって岸本の死んだ妻の忌日になり、男の子たちも一緒に墓参りに行くことになった。岸本は途中で旧友を訪ねるから、節子もついていって、子供らを連れて帰ることになった。父はそのことで、母をとりなすように、
 「節ちゃんも一緒に行って、帰りには子供を連れて来るがよかろう」
 そう言った。
 節子はいそいそと支度をし、白足袋をはき、薄色の日傘を手にして、子供たちが急き立てる中、一番後れて家を出た。
 節子は外出するとよく脳貧血を起こすと聞いていたから、岸本は、
 「節ちゃん、今日は大丈夫かね」
 と尋ねると、
 「ええ、大丈夫でしょう」
 とおとなしく答えた。
 「お前の着物も何も皆お蔵へ預けてあるなんて――なかなか好いのがあるじゃないか、そんなのが有れば沢山じゃないか」
 「好いにも悪いにも、これッきりなんですもの」
 と節子は少し赤くなった。そして手にした女持の日傘をひ広げて、恥ずかしい、という形を作って翳した。
 旅から帰ったあと、叔父と一緒に歩くのは、節子に取ってそれが初めてだった。節子はこうした日の来たことを夢のように思い、近頃にない明るさを取り戻して歩いていた。清正公前の停留場まで歩き、電車で新宿まで出て、それから墓地まで歩いた。
 節子は、叔母さんにあげる花を買っていきたいと、花屋へ寄り、岸本と子供たちは先に寺の境内に入った。節子は白い百合の花などを見立ててあとから庫裏で一行と一緒になった。墓地には、死んだ岸本の妻と、三人の女児の名が書いてあった。
 「叔母さんが亡くなってから、もう七年にもなるかねえ」
 と岸本は花を提げてそこへ随いて来た節子の方を顧みて言った。三人の女児が相次いで病気で死ぬありさまは、岸本の『家』という小説に詳しく書いてあった。
節子は、自分が折りに触れて書いたものを見てくれと言って岸本に渡した。それには、岸本がフランスへ行っている間、岸本を思い、帰りを待ちわびるような日記風のものもあれば、箴言風の言葉なども書いてあった。
 岸本は兄の家族を何とか救おうとした。近所の二階を借りて仕事場にし、口述筆記を節子にさせようと思った。節子ももう二十五になり、何の仕事もせずにいるのは良くない。嫁に行かないのなら仕事をしたほうがいいし、本人も元気になると思った。節子は手は悪かったが筆が持てないほどではなかった。
 「浅草にいた時分から見ると、よっぽどお前も違って来たね」
 と岸本は節子に言った。節子は相変らず言葉少なだったが、延び延びとした気持でいられるのは岸本とこの二階に居る時だけだという風で、部屋の隅にある茶道具の方へ行ったり床の間に積重ねてある書籍の方へ行ったりして、そこいらを取片付けていた。岸本は、
 「これまでお前がいろいろな目に逢ったのは無駄にはならなかったと思うね。結局お前を良くしたと思うね」
 と言った。節子は叔父からそう言われることが嬉しく、軽く溜息を吐いた。
 「お前の心持なぞはお母さん達とは大分違って来ているんだろう」
 岸本が言った。
 「みんな――裏切られてしまうんですもの」
 節子はそれだけ言って、俯向いた。
 岸本は押し入れから自分の身体を養うつもりで買って来たフランス産の葡萄酒を出し、
 「これは自分で飲むつもりだったが、まあそっちへ上げる。下手な薬なぞよりはかえってこの方が好い。毎日少しずつお上り」
 と言って節子の前に置いた。節子は嬉しそうにその壜を手にとり、胸に抱くようにした。
 「節ちゃんはそんなにひどく瘠せたようにも思われないが――」と岸本は言葉を継いで、「それでも前から比べるとずっと瘠せたかねえ。お前は元から瘠せたような人じゃなかったか」
 節子はまるでその葡萄酒をもう飲んだように目の縁を赤くして、
 「前にはこれでも肥っていましたとも」
 と言った。
 「お前の髪の毛だって、そんなに切れてもいないじゃないか。そんなにあれば沢山じゃないか。お前がパリへよこした手紙には、心細いほど赤く短く切れちゃったなんて書いてあったが」
 「ようやくこれだけになったんですよ――」
 と節子は言って、生え際のあたりの髪の毛をわざと額のところへ垂れ下げて見せた。
 「節ちゃんは苦労して、以前から比べるとずっと良くなった。何だか俺はお前が好きになって来た――前にはそう好きでもなかったが」
 節子はこの言葉の前半に喜んでしまったため、後半のひどさに気づいたのは、あとになって岸本の小説でそれを読んだ時のことだった。だからその時の節子は嬉しさがこみあげてくるのを抑えて、葡萄酒を抱えて家まで帰った。
 ところが、それから持ち上がったのは、岸本の再婚の話だった。両親が話しているのをかたえ聞きして、それがそのことだと気づいた節子は、頭を殴られたような衝撃を受けたが、岸本自身も、節子に自分の再婚について話して聞かせた。節子は、また憂鬱な顔つきになってしまった。
 (「好きになってきた」というのは、そういうことが前提だったのかー)
 食事のたびに、黙ってうつむく節子の姿が、家族の目にも明らかだった。岸本はある日、節子のところまで立って行き、
 「節ちゃん、お前はどうしたんだねえ」
 と話しかけた。
 しかしほどなく、節子はいくらか明るさを取り戻した。
 「節ちゃんもいいけれど、何かこう低気圧でも来るように時々黙り込んでしまうには閉口する」
 岸本は父や母の前でもこう口にしたが、それでも節子は気にしないほどに機嫌が回復したりもしていた。
 節子は菓子箱の中に入れたものを岸本に見せるように渡した。それはフランスから節子に宛てて出した絵葉書や節子のメモなどだった。豊国の春画まで入っていた。岸本の不在の間、節子はそれをもって自分を慰めていたのである。
 洗濯物を持って歩いてきた節子を岸本は呼び止めて、また自分の再婚の意思を話した。
 「叔父と姪とは到底結婚の出来ないものかねえ」
 岸本はこんなことを言い出した。節子の内面はぱっと輝いたが、それを表に出さないようにした。岸本はそんな節子の顔を見まもりながら、
 「いっそお前を貰っちまうわけには行かないものかなあ。どうせ俺は誰かを貰わなけりゃ成らない」
 節子の胸は激しくときめいたが、そ知らぬ顔で、
 「うちのお父さんはああいう思想の人ですからねえ」
 と答えた。
 「節ちゃん、お前は叔父さんに一生を託する気はないかい――結婚こそできないにしても」
 節子はそれを、岸本の愛の告白と受け取った。けれど様子を繕って、
 「よく考えてみましょう」
 とだけ言い、家の方へ帰って行った。
 寝苦しい夏の夜が明けて、岸本が表へ出ると、節子があとから起きて来た。
 「節ちゃん、昨日の話はどうなったね。よく考えて見ると言ったお前の返事は」
 と岸本が訊いた。節子は嬉しげに、
 「喜んで、お受けいたします」
 と言った。
 「お前は叔父さんを受け入れたね――」
 「ええ」
 と節子はうなずいて見せた。
 午後に、岸本は例の二階で、節子を助手に、旅の話などを筆記させた。節子に分からない字あどがあると、岸本は紙に書いて教えた。自分で書くより手間がかかった。
 一仕事終った後、節子は紙や鉛筆なぞを片づけながら、
 「泉ちゃんや繁ちゃんの大きくなった時のことも考えなけりゃなりませんからね」
 などと、二人の男の子のことを言った。岸本は、
 「お前はもうそんな先の方のことを考えているのか」
 と言って笑った。節子がよく考えてみると言ったのも、男の子二人が成長したのち、自分ら二人をどう見るかということだった。
 「本当に叔父さんについて来られるかい」
 とまた岸本が言うと、
 「ついて行けると思いますわ」
 節子は答えたが、何時の間にか彼女の眼には涙が浮かんでいた。しばらく二人の間には沈黙が続いた。
 「今度こそ置いてきぼりにしちゃいやですよ」
 と節子が沈黙を破った。
 「何だか俺は好い年齢をして、中学生のするようなことでもしてるような気がして仕方がない」
 と岸本は言った。「節ちゃん、ほんとに冗談じゃないのかい」
 「まだあんなことを言っていらっしゃる――私は嘘なんか言いません」
 節子の体はまだ弱っていて、ある日岸本が郵便局へ使いにやったら、途中で具合が悪くなって帰ってき、二階で倒れてしまったことがあった。
 「節ちゃんも弱くなったねえ。そんなことで脳貧血が起って来るかねえ」
 そう言いながら、岸本は探してきた薬を節子に与え、手ぬぐいを濡らして節子の顔に置いた。節子の白粉が剥げて地肌が見えた。
 「随分お前も色が黒いんだね」
 岸本はそう言って笑い、節子は壁の方を向いて顔を隠した。祖母さんが見舞いに来て、帰っていった。
 岸本はふと、フランスへたくさん送られてきた節子の手紙について訊いた。
 「どういうつもりでお前はああいう手紙を叔父さんの許へよこしたのかね」
 これを聞いた節子は、黙ってうつむいてしまった。
 「俺は又、お前が自分の子供のことを考えて、それでああいう手紙をくれるんだと思っていた――そうじゃないのかね」
 「そのうち何でも話します」
 節子は言葉に力を籠めて、それだけ答えたが、いつの間にか彼女の眼には涙が湧いて来て、頬を流れた。
 岸本は、
 「二度とあんな旅に出掛けるなんてことは、俺にはできない。もしそんな場合が起って来るとしたら、俺は死ぬより外に仕方がない。さもなければ、寺院へでも入ってしまう。そんな話を聞いたばかりでも、俺はもうこの頭を剃ってしまいたくなった――」
 そう言った。
 「私らは、日本は徳川時代身分制度で、西洋にまねて身分をなくしたと思っていたが、フランスは大変な身分社会だったよ」
 とそうも言った。
 岸本は、兄・義雄に呼ばれて家の二階で何かひそひそと話していたようだった。節子は気になって、終わって出てきた岸本に、
 「お父さんは、何か言いましたか」
 と訊いた。
 「なんにもお前の話は出なかったよ」
 と岸本は言った。やがて岸本は自分の紙入からいくらかの金を取り出して、それを節子の前に置き、
 「節ちゃん、これはお前の稼いだ分だ」
 と言い添えた。節子はありがたく受け取った。母のところへ持って行って見せると、母は上機嫌になった。
 「叔父さんのおかげで、お前も一人前になったな」
 そう言った。

(つづく)