「二つの文化」とピンカー

小谷野敦

 スティーブン・ピンカーの『21世紀の啓蒙』は、人類がその歴史においていかに進歩してきたか、啓蒙主義を基調として論述し、人類の未来は明るいとしたもので、地球温暖化などは取り組まなければならない危機とされている。その最後のほうでピンカーは、啓蒙主義を否定するロマン主義が戦争を賛美したことから、ニーチェハイデッガーフーコーポストモダンを批判している。ピンカーはC・P・スノーの「二つの文化」つまり熱力学の第二法則すら知らない文系知識人が、自然科学からなる世界とは別の文化を持っているとして警鐘を鳴らした話もあげており、つまり認知科学者であるピンカーのこれまでの歩みが、理系知識人としての、文系(人文系)知識人への批判であった、ということが分かる仕組みになっている。ピンカーの新著は売れているが、ユヴァル・ノア・ハラリのものほどではないようだ。ハラリは『サピエンス全史』ではピンカーに近い立場で現代社会を記述していたが、『ホモ・デウス』以降は、将来の格差拡大社会を憂える論調になっており、こちらのほうが人文系知識人には受けがいいようだ。

 「二つの文化」については、かねてより「文系・理系」を分けることへの批判はあるが、実際には経済学は数学を使うし、社会学も統計を使ったりする。ある文系の学者でも一般人でもいいが、理系の知識も必要だと思って、物理学や化学を、高校まではやったのでその先を、というので勉強し始めることはあるだろう。だが当然ながら、「文系」どころか「文学部」に所属している「言語学」については、門外漢は率先して学ぼうとはしない。

 ピンカーは『言語を生み出す本能』という著作もあり、チョムスキー生成文法の擁護者であり解説者でもある。そのことは、人文系の知の世界の批判者であることと深い関係がある、というのがここで私が言おうとしていることである。

 最近では純文学の世界でSFがはやっている。人気が高いテッド・チャンの代表作「あなたの人生の物語」(一九九八)は、映画「メッセージ」の原作でもあり、異星人が地球に来訪するが、その言語を学んだ女性言語学者には、時間を自由に往来する力がつく、という言語SFである。このような言語観はサピア=ウォーフの仮説、つまり言語相対説に近いものだが、使用する言語によって思考が影響を受けるという言語相対説は、一九六〇年代以降一世を風靡したが、今では疑問視されており、ピンカーは、強い言語相対主義はもはや無効だが、弱い言語相対主義ならありうる、としている。伊藤計劃の『虐殺器官』も同様の言語相対主義SFである。

 その昔、『週刊朝日』の人気連載として「日本語相談」というのがあった。読者からきた日本語に関する相談に、井上ひさし丸谷才一大野晋大岡信の四人が交代で答えるというものだった。大野はともかく、作家や詩人である三人は、日本語に詳しい、専門家だとみなされたのだろう。実際井上は、自ら日本語通をもって任じていたようである。しかし、では言語学者はどうなのか。

 もう二十年近く前のことだが、コンピューター用語から出て来た「立ち上げる」という言葉がおかしい、という議論が盛んだった。阿川弘之高島俊男は、これは自動詞プラス他動詞だからおかしいのだと言ったが、それなら「私は仕事を終えて引き上げた」なども自動詞プラス他動詞ではないか、といった反論があり、私は、立つと上げるの主体が違うからではないかと書いたことがあるが、これも十分ではなかった。

 そこで言語学者の論文を参照してみると、対格と非対格、能格と非能格といった区分が出てきて、とうてい一般人には理解できない、するためにはそれなりに言語学を勉強しなければならない、ということが分かるのである。ピンカーは『人間の本性を考える』で、生成文法の論文の一節の、難解な術語が多く使われている箇所を引用して、これでは一般読者が敬遠するのも無理はないと言っているが、こと日本語に関していえば、井上ひさし丸谷才一と同様に、ないし私自身も、四十年以上日本語を使ってきた、ないしはそれで本を書いて飯を食ってきたんだからよく分かっている、という勘違いがある。これは英語やイスパニア語ではないだろう、日本という島国と日本語という言語と豊富な言語文化がもたらした日本独自のナショナリズムであり、要するに言語をなめているのである。水村美苗の『日本語が滅びるとき』が、長々と書いてある割に、東大生が夏目漱石を読まなくなったことを嘆いているだけで、しかしその題名のために話題になったのも、この国語ナショナリズムのためであろう。

 そのような、四十過ぎの文系知識人にしてみたら、理系のことが分からないのはまだ許せるが、文学部で教えている言語学というのがそんなに難しいものだと知ると、怒りだすのが普通である。これは私の体験から言っても、対格とか非能格とか言い出すと、人々はざざざっと引いていく。

大阪大学では、言語学や心理学(認知科学)は文学部ではなく人間科学部にあるが、東大ほか多くの大学では、心理学は分けられていることが多いが東大文学部にはまだあり、言語学もある。だがこの二つのディシプリンは事実上「理系」である。だとすれば、理系の専門論文が専門外の人間に難しくて分からないのは当然なのだが、文学部にあるから人は怒りを覚え、四十過ぎのおじさんは、けしからん、日本語がこんなに難しく語られるなんて、と思うのである。私自身の体験で、修士論文を書いた時に、さる元は理系の教授が「文学作品ってのはこんな頭でっかちに読むもんかねえ」と言われたことがある。元理系だから、文理のかけはしになるかと思って呼んだら、文学は理屈ではない式の幻想を抱いた人だったのである。

ピンカーが「ポストモダンの失敗」と書いている通り、難解ならいいというわけではもちろん、ない。千葉雅也の私小説「デッドライン」では、中島隆博をモデルとした指導教官と院生の会話はほとんど禅問答である。

「科学哲学」というのもあるが、物理学者・須藤靖と、科学哲学者・伊勢田哲治の対談『 科学を語るとはどういうことか 科学者、哲学者にモノ申す』(河出ブックス) を読むと、科学哲学者ですら本物の科学者の前では赤子の手をひねるように扱われるのか、と驚くし、実際私が学生の頃も、理系の人は、「村上陽一郎なんかの言ってることは自分らから見たらちゃち」と言っていた。だから、東大教養学部の科学哲学には、今では村上のような文系出身の科学史の人はおらず、理系の教員ばかりである。

しかし言語学のほうには、なかなか侮れない、人文系知識人用言語学があって、ソシュール時枝誠記、三上章らである。丸山圭三郎の本で読む程度だとソシュールは易しくて面白く、ニューアカ時代にはにわか勉強で、シニフィアンとかシニフィエとか言い出す者が多かった。時枝となるとちょっと難しいが、哲学的だ。

あるいは人文系知識人御用達みたいな言語学者もいて、大野晋鈴木孝夫がそうだし、池上嘉彦もそうかもしれず、田中克彦や金谷武洋もいる。言語学がない阪大文学部には、日本語学と国語学はあって、これは語彙論を中心にして分かりやすい。大野や鈴木の一般向けの本は、いわば井沢元彦の日本史の本ていどには分かりやすい。池上はサピア=ウォーフに未練があるし、田中は鈴木とともに反チョムスキーの狼煙をあげており、金谷にいたっては生成文法の論文がこんなに難しいのはおかしい、と本当に書いている。自然科学の学者がこんなことを言い出すことはまずないだろう。それ以前に著書など出せなくなっているはずだ。

文系の文化とニーチェハイデッガーを批判した埋め合わせのように、ピンカーは新しい技術が人文系の学問や文学にも寄与できる、と書き、批評は自分も好きだと書いている。間にはさまれた近代の西洋文学者の名前からしても、ピンカーは文学作品もだいぶ読んでいるのだろうと推測できるが、批評というのは何のことだろう。文藝時評のことだろうか。

ピンカーは楽観的な未来を描いていることになっているが、実のところ、そうであるがゆえの不安もまた、読んでいて襲ってくる。ピンカーの大著は隅々までよく考えて書かれており、日本語訳も完璧だが、一か所だけ、ピンカーが躊躇している部分がある。中間的共同体がなくなって人が孤独を感じるようにならないか、という箇所で、そこではピンカーは姉の著作をあげてお茶を濁している。

「ポスト・アポカリプス」ものと呼ばれるフィクションがある。人類が核戦争で半ば滅亡し、生き残った人々が、というやつで、二十世紀後半に流行した。だが、どうやらそういう事態は起こらないらしく、それらのフィクション、たとえばアニメ『未来少年コナン』は、二〇〇八年に、『新世紀エヴァンゲリオン』は二〇一五年にその半滅亡が起きるとしていたが、それらの年次はすでに過ぎてしまった。ピンカーの著作の翻訳が出た昨年一二月は、ちょうど新橋演舞場で、尾上菊之助が歌舞伎版「風の谷のナウシカ」を上演していた。

だが、今にして思えば、私たちはそのような「半・滅亡」を想定することで救われてもいたのである。地球や人類は、一般的な惑星や種の寿命から考えて、あと数万年から数百万年も続くことになる。その間、私たちは何をしているのか。文化や文学はどうなるのか、数万年たってもホメロスシェイクスピアは名作なのか。私たちは何で暇つぶしをするのか。おそらくテクノロジーによって脳内物質が補給され、小説や映画といった暇つぶしは無用になるのかもしれない。

 二十世紀末に、中村真一郎が、文学は新しい可能性をやり尽したと述べて、その後ほどなく死に、今世紀になって柄谷行人が「近代文学の終り」と言って騒ぎをもたらした。だが、実際には多くの人がそのことに気づいていて、それをカリスマ批評家が言ってしまった、ということでうろたえたのであろう。

 『文学』(岩波書店)や『國文學』(学燈社、至文堂)といった雑誌は必然性をもって消え去り、文学の学会は会員の減少に悩み、文学研究は日々やることがなくなっていっている。ただ、文学の学会で、やることがなくなってどうするべきか、といったシンポジウムが開かれることはなく、新し気に見せかけたモレッティの理論を持ち出したり、東アジア文学やSFに大いなる未来を見ようとしたりしている。

 ピンカーは最後に、技術的進化は人文学にも寄与するだろうと何だか慰めるように言っている。テキストはデジタル化されるだろうが、手作業は少なくなるだろう。さらにピンカーが「批評は私も好きだ」と言っていて、いったいピンカーが、今日の、精神分析ポストモダンに汚染された批評の世界で、どんな批評を好んでいるのだろうと思う。あるいは時評のことだろうか。