事実に意味があるのである

もう五年くらい前の本だが『文豪の女遍歴』(幻冬舎新書)への感想についての感想を書いておく。

 読者はがきの中には「今度は一人の作家を掘り下げてください」などと書いてあるのもあり、参考文献に私の名前をつけて『谷崎潤一郎伝』とか『川端康成伝』とかあげてあるのでへなへなしたが、これは高齢者だろう。

 気になったのが「そういう異性関係が作品にどう影響したか」を書くものだろう、といった感想で、私は「作品に影響した」ことを常に考えてはいない。それなら「総理の女遍歴」なら、それが政策にどう影響したかを追求するのだろうか。

 加藤周一の『羊の歌』に、仏文科の鈴木信太郎の授業に出たら、マラルメの家賃がいくらだったかという話を一時間していて呆れたと書いてある。家賃が作品に影響したとも思われないが、学問というのはそれでいいので、まず事実を明らかにするのである。

 昔の伝記研究ならそんなことは当然だったのだが、テキスト論とかの普及のせいか、作品に影響しないことを調べるのは意味がない、とでも思う人が増えたのだろう。歴史学では、ある事実を書いて、「それはどのような影響を与えたのか」といちいち問われることはなかろうが、文学研究というのはある意味後退しているので、そういうことが起こる。

 数年前に川端康成の「千代」宛ての恋文が公開された時、こんなものが公開されてかわいそう、という声があって私は驚いたのだが、ある種の人は、他人の性的閲歴を調べるのを覗き趣味のように感じて恥じており、それで「作品に」といった口実が必要になるのであろうか。

小谷野敦