凍雲篩雪

凍雲篩雪(71)世間というもの

一、伊藤詩織の『Black Box』(文藝春秋)を読んだ。強姦被害者の手記としては、緑河実紗の『心を殺された私 レイプ・トラウマを克服して』(河出書房新社、一九九八)が、犯人の非道と、被害者のPTSDの壮絶さで忘れがたい本になっているが、その後この著者がどうなったか分からず、少しく気になっている。気になっているといえば、『「レズビアンである」ということ』の掛札悠子も気になっている。
 伊藤の記述は詳細で、強姦があったことは明らかだ。一つ疑問だったのは、意識が戻ったのが午前五時ころとしているが、意識を失ったのが何時ころか書いてないことで、もちろん正確には分からないだろうが、だいたい分かるのではないかと思った。
 山口という男の逮捕を止めた中村格にその理由を訊きたいということだが、これは謎のままで終わりそうだ。伊藤は民事訴訟を起こしているが、裁判というのは、真実を追及するものではない。「真実を知りたい」というのは「訴えの利益」にはならないようである。
 おそらく山口という人は、これまでもこの種のことをしてきたのだろう。殺人や強姦というのは、戦争のような特異な状況を除けば、素質のある人間でなければできない。その一方で、一部の動物幻想とは異なり、動物に強姦は多い。そのような動物の素質をそのまま受け継いだ人間(オス)がいるということは単純な事実以上でも以下でもなかろう。
 しかし、伊藤に関して、二十八歳でこのような事件の手記を出して、この後ジャーナリストとしてやっていけるのか、という懸念はある。世間は、「強姦被害者」のレッテルを貼り続けるだろう。がんばってほしい。
二、「蟻の兵隊」というドキュメンタリー映画を観た。二〇〇六年のもので、当時ロングランしたというのだが、全然知らずにいたのはどういうわけだろう。ポツダム宣言受諾後も、日本軍の一部が山西省に残留し、軍閥の閻錫山とともに共産党軍と戦い、中華人民共和国成立とともに抑留され、五年たって解放されて帰国したという事実である。これは軍司令官・澄田らい四郎(中将)の命令によるものだったが、本人らの自発的意思で残ったとされ、戦後補償が受けられなかった。そこで有志が裁判を起こしたのだが、最高裁まで行って敗訴した。
 池谷薫の監督で、その一人・奥村和人という、当時八十三歳の老人の戦いを追っている。澄田は一九四九年に、部下らを残して帰国、本来は戦犯になるはずのところ、罪にも問われず七九年まで生きた。閻錫山は、国民党とともに台湾まで逃れた。奥村らは、閻錫山と澄田の間に密約があったと考える。その密約文書を見たと証言する宮崎舜市(元中佐)は、この時点で九十歳を過ぎて病床にあり、話すこともできない。裁判の結果を報国に来た奥村が話すと、言語にならない音で反応する。娘さんが「分かるんですね」と言う。
 奥村には、十歳くらい若いのではないかと思われる妻がいて二人暮らしだが、妻には戦争で人を殺したことが言えずにいるという。山西省へ再び調査に行って、閻錫山が澄田の帰国に際して書いた手紙を見つけ、「自分だけ逃げようとしたんだ、卑劣だ」と怒り、自分が二十歳のころ、現地人の処刑に立ち会った場所を訪ねる。現地の人々は、日本軍の残虐行為について語る。しかし一人の女性は、あなたは今では悪い人には見えません、と言う。
 裁判所が奥村らの訴えを退けたのは、澄田が命令を下したとすればポツダム宣言違反になるからだ、と奥村は語る。最後に奥村は、靖国神社で開かれている右翼の集会に行く。演説しているのは小野田寛郎で、奥村は小野田に近づいて、「小野田さん、侵略戦争の美化ですか」と言う。小野田はさっと顔色を変えて、「終戦詔勅を読みなさい!」と怒鳴りつける。
 奥村も小野田も、二〇一一年に死んでいる。「人間の尊厳」などという手垢にまみれた言葉を使いたくなる映画だった。 
三、角界が混乱している。もともと、稀勢の里横綱にしたのは無理だった。日本人横綱を作りたいという意向が、このような事態を生んだのだとも言える。だが、幕内の半分がモンゴル人というのは、やはりおかしいと感じるのは無理もない。オリンピックのような国際競技で、柔道においてヘーシンクに遅れをとるのとは違う。江戸の大関より地元の十両などと言われるくらい、地元出身力士を応援する、しかも「国技」である。高見山や、曙、小錦など数人のハワイ勢がいたころとは違うのである。それを言って人種差別と言われる筋合いはないだろう。人種差別という批判を恐れるNHKでも「日本人横綱の誕生」という言葉を使っていた。
 日馬富士貴ノ岩への暴行事件では、いつの間にか、警察へ被害届を出した貴乃花親方への非難が始まっていた。ああ、世間だなあと思う。貴乃花相撲協会へ届けずに警察へ届を出したのは、協会へ届ければ内々で済まされてしまうからである。
 しかしある時期から、マスコミでも貴乃花叩きが始まった。要するにこれが世間である。貴乃花を見ていると自分を見ているように、私は思う。私はかつて大学に勤めて、酒乱の同僚に恫喝されたことを公表したし、同僚のセクハラを告発した。そういうことは、正義であっても組織ではしてはいけないことなのである。たまたま、スティーヴ・マックイーン主演の、イプセン原作『民衆の敵』をDVDで観た。これは、ジェイムズ・キャグニー主演のギャング映画がこの邦題だったので、イプセンだと思って間違えて観たことがあったが、イプセンの映画化があるとは知らなかった。米国でもちゃんと上映されなかったようで、日本でも公開されなかったらしい。何だか「世間」の圧力で公開されなかったんではないかと勘繰りたくなる。
 私は貴乃花を信じる。(その後国家主義的な発言に不審を感じて撤回)
三、姜在彦が死んだ。私は学生のころ、『朝鮮の攘夷と開化』というのを呉智英さんが勧めていたので読んでみたが、呉さんが言いたかったのは、朝鮮の日本帝国主義からの独立運動儒教にもとづいていた、ということで、呉さんの周囲にいたマルクス主義者にとって、儒教というのは敵だから、彼らにショックを与えるために持ち出したのだろうが、マルクス主義者ではない私には、まあ朝鮮だから儒教だろうな、と思う程度であった。平川祐弘などの世代の右翼も、自分はマルクス主義には染まらなかったと言うのだが、マルクスに染まらないと天皇右翼になるというのは私には理解できない話で、まあこういう昔の人のマルクスを中心に世界が回っているような発想というのは、今後なくなってほしいものである。佐藤優みたいなマルクス主義右翼というのもいることだし。
三、「天皇の政治的利用」という言葉の意味が分からなくなってきた。自身が高齢で引退したいと述べてそれが実現されるのが「政治的利用」なら、昭和天皇の「人間宣言」をそのようにとらえて喧伝するのも「政治的利用」だろうし、それどころか天皇の存在を憲法に記していること自体「政治的利用」ではないか。