凍雲篩雪

 日本史ブームと保守

本誌は来年三月で休刊になるというので、この連載もあと五ヶ月で終わることになる。別段それにあわせて何かを書くということにはなりそうもない。
一、井上章一本郷和人の対談本『日本史のミカタ』(祥伝社新書)を読んだ。呉座勇一の『応仁の乱』以来、新書の歴史ものブームが続いている感じだ。私は井上とは面識があるし、本郷とは今日まで会う機会はないがメールはしていたことがある。本郷といえば中世史特に鎌倉期が専門で、何かというと「権門体制論」がどうとか言う人である。鎌倉幕府ができてからも、京都には朝廷、寺社、貴族の荘園などの「権門」があり、それ相応の力をもっていたという、黒田俊雄の論である。かねてひっかかっていたのが、仮にそうだとしても、鎌倉幕府がある程度の力を持っていたのは事実なのだから、両方の勢力があったといえばいいものを、本郷が「権門体制論に都合が悪い事実」のような言い方をすることで、もともと黒田自身、実証的な歴史学に対して仮説提出的な史学の可能性として権門体制論を言いだしたのだから、「両方ある」で収めていいだろうと思うし、本書の中でも、そういう結論は出かけている。本郷は、平安末期の武士が、傭兵か武装貴族かという点で迷いを見せていると井上に指摘されているが、これにしても、双方の性質があると言えばいいのではないかと思った。
 なお、現在の天皇の退位後の呼称について、「上皇」が妥当だろうと本郷が言っているところで、井上が「平成院」はないんですかと訊き、本郷が、それは案としてはなかったですね、と答えているが、これでは宇多院から光格天皇までの「院号」になってしまい、それでは諡号だからそれはないだろう、ということを本郷が説明すべきではなかったか。
 とはいえ、井上は天皇制に批判的だ、というのを私は聞いたことがあるし、本郷もそうだと思うのだが、双方とも現天皇制を是認する発言があり、ああそうしないと今の日本では人気学者として生きていくのが難しいんだなあと暗い気分にさせられた。磯田道史などはれっきとした保守派文化人だし、いわゆる日本史ブームも、高齢者を中心とした「保守」の読者、ないしテレビによく出る井上、本郷、磯田らに対する視聴者層に支えられたものなのであろう。
二、藤谷治の「新刊小説の滅亡」というのは、三年前に『ダ・ヴィンチ』に発表され、『本をめぐる物語 小説よ、永遠に』(角川文庫)に入っているが、中俣暁生に教えられて読んでたいへん面白かった。大手出版社が、以後新刊小説の単行本は刊行せず、文藝雑誌(娯楽ものを含む)は廃刊にするという近未来小説で、実際小説の現状はこんなことが起きてもおかしくない状況である。
 ただ、純文学については、そうだと思っている人も、娯楽小説の現状はまだ楽観視しているのではないか。私も藤谷も、たぶんそこがもっと厳しいのである。
 このところ、直木賞受賞作に歴史小説がない。架空の人物を主人公にした時代小説ならあるが、実在の人物を描いた歴史小説がないのだ。近代になって、日本では数多くの歴史小説が書かれた。西洋では例を見ない数で、吉川英治司馬遼太郎ら花形スター作家を輩出した。だが歴史上の人物の、描けば売れるところはあらかた描き尽されてしまったのだ。私も歴史小説を書くから、いろいろ調べたが、書いても売れない人物しか残っておらず、そういう人物も描かれて、現に売れていない、というのが現状である。和田竜の『村上海賊の娘』のように、架空の漫画の原作めいたヒロインを、史実で固めてようやく売れるという状態である。
 現代小説は、この三十年ほど女性作家の活躍が目立ったが、二十年ほど前に、私は藤堂志津子の『昔の恋人』などを読んで、女の性欲が描かれている、というので高い評価をしたのだが、その後女性作家による女の性欲ものがはやってしまい、今では手垢のついた題材になってしまった。そのころ天童荒太の『永遠の仔』が子供の性的虐待を描いてベストセラーになっていたが、その後世界的に、小説でも映画でもこの題材がやたらと扱われるようになり、これも飽きのくるものになってしまった。
 おそらく藤谷も、娯楽小説ももう無理なところへ来ている、と思っているのだろう。世界的に見ても、純文学はSFや推理小説の力を借りて延命をはかっているし、しかしそれらが、二十世紀前半までの「小説」と同じように古典として残るとは思えないのである。
三、先般来の『新潮45』休刊にいたる事件そのものには、私は触れないつもりでいた。それについて触れるにはもうちょっと長く書かなければならないからだ。だが、当該事件の論題となった「LGBT」とは別に、高橋源一郎が『新潮』十一月号に「「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」を寄稿したのには触れざるを得ない。高橋は、一方で文藝評論家である小川が、一方で安倍政権ヨイショの「右派」論客であるということを二重人格的にとらえ、同情しつつ揶揄している。『新潮45』に書かせておいて突き放し、『新潮』で批判させるというのもさることながら、私は『新潮45』四月号に載った村上政俊「「恋愛」でいいのか 皇族の結婚」をどうにかしないといけないと考えていたからである。これは秋篠宮眞子の結婚が暗礁に乗り上げたのに乗じて書かれたもので、ほかに『婦人公論』には工藤美代子の、皇族特別視論考が載っていたのだが、高橋源一郎といえば、『新潮』に「ヒロヒト」なる昭和天皇礼賛的な小説を断続連載している天皇好き、天皇制是認者である。しかして先の村上論文は、まさに皇族に人権は要らないと豪語したものであって、LGBTの人権が気になる人たちは、こうして白昼公然と天皇・皇族に人権は要らないと宣明されることに異常なものを感じないのか、と思うからである。仮にこれを「箱の中の天皇」(『文藝』冬号)赤坂真理が書いても私は呆れたであろう。
  『週刊新潮』三月八日号の、昭和天皇を描いたピンク映画とされる「ハレンチ君主」の記事の最後で、民俗派右翼の蜷川正大の言葉が引用されている。「ストーリーを聞く限り、映画の製作側は昭和天皇の戦後のご巡幸のことを念頭に置いているのでしょう。少し聞いただけでもそう思うくらいだから、不敬な映画かなという気がします。我々一般庶民であれば、名誉毀損とか肖像権侵害とかで抗議が出来ますが、皇族の方には全く反論権がない。こういう映画を作ること自体、許されざることだと思います」。死者の名誉毀損は、事実に反していれば成り立つはずだが、そもそもそんな「人権」のない人々がいること自体問題ではないのか。右翼としては、天皇・皇族に人権がなくてもいいと考えているのだろうが、国民はそのことを考えていない。マスコミが考えさせないようにしているからである。高橋や赤坂や、「保守」を名のる言論人は、この問いに答えるべきであろう。