凍雲篩雪

 坂東玉三郎と文学

一、一九九四年五月四日と五日、NHKの教育テレビで、三浦雅士坂東玉三郎の対談番組があった。その中で玉三郎が、舞踊の際の清元などについて「踊りのための音楽の歌詞でしかないじゃないですか」と言い、三浦がうんうんとうなずいていたことがあった。私はその言葉の意味がよく分からなかったのだが、六年ほど前のNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」の玉三郎の会を観て、はじめて意味が分かった。
 以下は世間的には常識なのかもしれないが、そこで玉三郎は、いつまで踊れるか、などと踊りの話ばかりしており、いい音楽が出て来たら、とも言っていた。さらに「わたし、文学って全然ダメで」などとも言っていたが、なるほど、新劇の俳優ならともかく、伝統藝能の人で、自分が演じている内容には関心がない、という人がいるのは知っている。さる有名な能のシテ方が、中入りで作りものの中に入って、アイの狂言が話しているのにふと耳を傾けて、初めてこれがどういう話なのか知った、という話もある。
 しかし玉三郎は、映画の監督もしているし、演出もしている。だがそれらは「踊り」を主とした「従」だったのであり、清元の歌詞など、踊りを支える音楽の付属品であって、中身などどうでもいいのだろう。
 玉三郎は、もちろん演技が下手なわけではない。サラリと口語風に言うのがうまいとも言える。だがそれはたぶんその時々の場面設定に応じて出るもので、新劇人が考えているようなせりふの技術というものはあるまい。私は歌舞伎を「筋」で観てしまう、歌舞伎に向かない人間だが、これまで玉三郎に対して感じていた違和感の正体が分かった気がした。
二、『子午線 Vol.6 原理・形態・批評』(書肆子午線)というのを買ったのは、綿野恵太の「石牟礼道子と憐れみの天皇制」が目当てで、綿野の論考は面白かった。しかし中島一夫の「江藤淳の共和制プラス・ワン」はどうも妙だ。中島は、江藤の『天皇とその時代』(PHP研究所、一九八九)を「天皇礼賛の書ではない」と書いているが、私にはまるっきりの、天皇の代替わりにおいて江藤が乱発した天皇礼賛の書に見えるのだが、どういうわけか。中島は江藤が、日本国憲法第一条について、「しかし、この第一条を即物的に読めばはっきりしていることは、いわゆる「主権在民」です。「主権在民」という以上は、これはなによりもまず共和政体を規定した条項と読める」と語ったのを引いている。しかし、「共和制」といえば一般には君主がいない国の形態を言うので、江藤は何か錯乱しており、まるで宮澤俊義のような憲法解釈をほどこしていき、中島はそれに沿って江藤を論じて行く。しかし「主権在民」と言っても共和制とは限らない、立憲君主制というのも主権在民で、江藤は民主制と共和制を混同している。江藤は天皇制を「共和制プラス・ワン」だなどと言うのだが、そんなことを言ったらすべての立憲君主国は「共和制プラス・ワン」であって、別段ことあげするには足りない。江藤は、昭和天皇に対しては敬愛の念篤かったが、今の天皇に対しては「逸民」などと自称するほどに、まあ好いてはいなかった。それに晩年の江藤は、天皇などどうでもよくなるくらい反米に熱中していた。中島の論考は、江藤淳の過大評価だろう。
 また安里ミゲルの詩とされる長い文章の中で、私の『頭の悪い日本語』(新潮新書)が取り上げられているのだが、安里は別の文脈で私の名を出しつつ、この書は引用しつつも私の名を逸しており、著作権上適性かどうか疑わしい。安里は「鮮人・満人」という項目で私が、差別語だと思われているかもしれないが、日本人は「日人」とされていた、と書いたのを取り上げて、日人と呼んでいたのは他国民であり、そう書いていない著者を罵倒しているが、私は日本人による用例を見て書いたのである。なぜ安里が日本人は使わないと思いこんだのか知らないが、調査不十分で人を罵倒するものではない。安里の履歴を見ると「チュチェ58年生まれ」とあり、これは金日成の生年を基準とするチュチェ暦だから、金氏王朝の始祖を崇拝しているのか、と驚いて、スガ秀実氏に訊いてみたら、アイロニーだと思う、と言っていた。私もそう願いたい。
三、スティーヴィン・ピンカーの『エンライトンメント・ナウ』という本がベストセラーになっているらしい。いずれ邦訳も出るのだろう。かねてピンカーは、二十世紀が戦争の世紀だというのは錯誤だとして、人口あたりの殺害者数は古代から近代にいたるまで減り続けており、二十世紀もその線上にあると述べてきた。そして、暴力や差別は次第に減っているのであるとして、楽天的な人類の未来像を提示している。アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』とは逆の見方である。
 私はおおむねピンカーの主張に同意するのだが、果してピンカーは「退屈」という要素をどう考えているのだろうという点が気になる。人間というのは退屈する生き物だから、啓蒙によって暴力や差別がなくなっていくと、退屈を紛らすものがなくなるのではないかというのが、私が『退屈論』(河出文庫)で説いたところで、これに対しては未だに誰からもしかるべき回答を得られていない。
四、江戸町奉行を務めた根岸肥前守の随筆集『耳嚢』は、岩波文庫にも収められ、そのうち怪談めいたものを集めた本も出ているが、詳細な解説はないようだ。その巻之二に入っている「義は命より重き事」が気になる。両国橋の上で袖乞いをしていた浪人は、四、五歳の子供を連れており、ある日もらいがなかったので、橋の上の餅売りに、餅を恵んでくれないかと頼んだところ断られ、困惑していると、かたわらにいた非人がカネを恵んでくれ、感謝してそのカネで餅を買って子供に食べさせ、自分も食べたのち、いきなり子供とともに川から身を投げてしまったという話である。
 岩波文庫にも平凡社ライブラリーにも特段の内容解説はないのだが、これは「非人」にカネを恵まれたのを武士の屈辱としての身投げではないだろうか。だとすればもちろん差別説話である。『耳嚢』には、えた、非人の出てくる話はいくつかあり、根岸肥前守が上記逸話に「義は命より重き事」と題したことから、根岸肥前守はむしろ非人に恵まれて身を投げたことをよしとしているのであろう。
 古典にはしばしばこうした差別を当然視したものが散見される。『今昔物語集』で、被差別民だったのであろう「乞丐」に強姦されそうになった女が、自分の子供を置き去りにして逃げたのが称賛されているのなどもその類である。歴史学者や古典学者も、面倒を恐れてこういうのを取上げない傾向があるが、もっと議論の俎上にすべきものだろう。

 

 

とちおとめのババロア

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