凍雲篩雪

風と雲と虹と

一、暇なので、一九七六年、私が中学二年の時放送されていた大河ドラマ風と雲と虹と」の完全版を観ていたら、終わりに近くなったところで、加藤剛の訃報があった。
 しかしむしろ衝撃を受けたのは、当時の私がどれほど深くこのドラマの思想に影響されていたか、ということが分かったからで、貴族政治を批判し、農業や漁業で働く民人たちを国の主人ととらえる思想で、平将門藤原純友は貴族政治や天皇制への反逆者として描かれていたのである。中二の私はこれに激しい影響を受けて、今日まで残っていることが、観ていてありありと分かった。
 ところで、将門の長伯父は国香で、その長男が将門のライバル・貞盛である。平安時代前期においては、貴族層では、後世のように父の偏諱を受け継がない。ところが、将門の父は良将とされており、将門の弟は将頼、将平らで、偏諱を受け継いでいる。次伯父は良兼だが、その子も公雅、公連、公元がいる。「風と雲と虹と」では、将門が奪って妻とした良子の弟ということになっており、将門がいったん敗北して良子が良兼の館に軟禁されていた際、公雅が手助けして脱出することになっている。演じたのは岡村清太郎、現在の清元延寿太夫である。だが史実の公雅はどうやら兄らしく、将門とも対立して将門敗死後、与党の興世王を捕らえている。国香、良正、良将、良文といった兄弟のうち、子が偏諱を受け継いでいるのは良将だけになる。だがこれは「良持」だとする説もあるが、将門より上に「将持」という夭折した兄がいたという文献もある。当時の一般的な名付けの法則に則るなら、「良持」であり、将持の存在は否定するのが妥当だろう。
 さらに、国香、良正、良将のように、長男以外の子供が偏諱を共有するという現象は、当時においてはよくあり、藤原氏なら忠平の子が実頼、師保、師輔、師尹、師輔の子が伊尹、兼通、兼家となっている。儒教思想では、高貴な人の名を避けるという思想がありので、もしかすると父を尊属と見てその字を避けたのかもしれないが、単に偏諱をとるという発想がなかっただけかもしれない。また長男=嫡男を高貴と見て字を避けたということもあるのだろうか。平安後期以後、武士の世界のほうが先に父の偏諱をもらうことが始まり、後代に至るが、公家では武家のように通字が生まれることはなかった。(く、道長以後の御堂関白家では嫡子が一代おきに通と実の字を持つことになり、五摂家の分立以後はあまり安定してはいない。)こういう名前の不思議について、歴史学者は何も言っていないようだが、つまりは文献がないからだろう。徳川時代の随筆類ででも誰かが考証していたら良かったのだが少なくとも私は知らない。