ロデリック・ハドソン

 1988年に私は比較文学の大学院の修士二年生だったが、その年から、行方昭夫先生が大学院の授業を担当することになった。比較文学比較文化課程では、芳賀、平川、小堀、川本といった固定した人たちと、駒場の教員がローテーションで三年ずつくらい担当するのとがあった。行方先生はローテーション組だった。
 これに参加して、ヘンリー・ジェイムズの初期の作品『ロデリック・ハドソン』を読んだのだが、これにはかつて駒場の教授だった谷口陸男の翻訳があり、しかし行方先生はこれを評価していなかった。 
 これは、ロデリックという才能ある彫刻家が主人公で、ローランド・マレットという美術愛好家の青年が彼を見出してヨーロッパへ連れていくのだが、ロデリックはローランドがひそかに恋をしているメアリー・ガーランドと婚約してしまう。しかしローマでクリスティナ・ライトという美女と知り合ってこれに恋をしてしまう。
 その最初のほうに、こういう文がある。「He had seen himself in imagination, more than once, in some mouldy old saloon of a Florentine palace, turning toward the deep embrasure of the window some scarcely-faded Ghirlandaio or Botticelli, while a host in reduced circumstances pointed out the lovely drawing of a hand. 」
これはローランドだが、谷口訳では「すでに彼は、自分がフローレンスの大邸宅の古びてかびくさい客間で、ほとんど色の褪せていないギルランダイオかボッティチェリらしい画を深くえぐった窓の朝顔口に向けており、零落したこの家のあるじはすばらしい手腕の跡を指でさし示している、といった光景を一度ならず想像理に思いえがいていた」となっている。問題は最後の「the lovely drawing of a hand」だが、行方先生は、これは何でしょうねえ、と言い、少し沈黙があって、私が「手の絵じゃないでしょうか」と言うと、「そうですね」と言われたのであった。
 さらにあとのほう、ロデリックがクリスティナに恋をしているのじゃないかとクリスティナの付添人(Cavariere)が懸念して話しているところに「Roderick had failed to consider it the simplest and most natural course to say in three words to the vigilant little gentleman that there was no cause for alarm―his affections were preoccupied.」というのがあった。谷口訳では「そしてロデリックは、警告されるいわれは何もないんだーー自分は勝手気ままな空想をしているのではないーーと警戒心の強い小柄なこの紳士に簡潔に告げることを、もっとも単純でもっとも当然なやりかただと考えることができなかった」とある。この「three words」を谷口は「簡潔な」としたわけだが、行方先生が、これは何でしょうねえ、と言っていると、榊敦子さんが「I am engaged」と言ったのである。それは確かにそうだろう。