凍雲篩雪

凍雲篩雪(61)奴隷天皇

一、天皇の退位に反対している平川祐弘は、天皇の仕事は存続することと祈ることだと述べている。また天皇自身の発言によって従来の法が変わるなら天皇の政治への関与になって憲法違反だとも言う。
 私はこのような人権のない人間を存在させる天皇制は廃止すべきだと思っているが、別に平川やその他大勢の天皇制維持論者が、人権のない人間がいてもいい、身分制度はあってもいい、というなら、それをはっきり言うべきである。もはや象徴天皇制どころか、これが「奴隷天皇制」に近いことが明らかになったが、大手マスコミはむしろ天皇制の存在を前提としてものを言うようになっている。トランプ大統領の行政に怒りを向けられる人が、仕事を辞めたいと言っている八十過ぎの老人があれこれと文句をつけられ、まだあと二年もやらなければならないという事態を目の前にして、これはひどい制度だと考えないのはまったく不思議である。
 退位問題について意見をもつと、天皇制を認めることになるから特に言わないが、平川が、「祈る」と言ったのは気になる。祈るというのは宗教的行為であって、憲法政教分離の定めに反しているからである。「日本国憲法 第二〇条 三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とある。
 そもそも天皇制は近代の神道と深い関わりがあり、平川は神道の家の竹山道雄の女婿という立場からも、こうした発言が出てくるのだろうが、一方で、天皇の政治への関与は違憲だと言いつつ、政教分離については自ら違憲をよしとする発言をするのはどういうわけか。もっとも政教分離の解釈は難しく、特定の宗教を支援しなければいい、という考え方が一般的だ。しかし「いかなる宗教的活動もしてはならない」とあれば、「祈る」を天皇の仕事だと言うことは、かつて国家公務員だった平川にとっては、やはり憲法違反のとらえ方になるだろう。
二、江藤淳は、一九七三年末から始まった「フォニイ論争」で、唯一書いたまとまった文章「フォニイ考」(『リアリズムの源流』所収)で、ヴァン=ルーンの「内に燃えさかる真の火を持たぬまま文を書き詩を作る人間は・・・・・・つねにフォニィである」という言葉を引いた。ヘンドリック・ウィレム・ヴァン=ルーン(一八八二‐一九四四)は、オランダ生まれ、米国で活動した文筆家で、『聖書物語』『人類の歴史』などの啓蒙的書物を著し、日本でも翻訳されている。しかし江藤はこれを『ウェブスター英語辞典』の引用句から引いたので、この文がどの本から引かれたのかは知らなかった。それは、『芸術の歴史』(Art)からで、玉城肇訳から引用する。「第三十章 新しい目が美術の見方を…」からである。

 中世の人々は一つの宗教をもち、どこでも多かれ少なかれ同じような社会的、経済的状態のもとで暮らしていた。かれらは共通の感動を経験することができたし、それに対して寺院の形であれ、絵画や歌曲の形であれ、共通の表現を与えることができた。かれらは現代生活の夢魔となっているあの羞恥感をいだかずに、かれらの感動に対して素直であることができた。
 ちょっと前にのべたギョーム・ド・マショールは、リュクサンブールのジャン(…)の秘書であったがーーこの人は早くも一三五〇年にこのことを認めていた。正確には訳しにくいので、フランス語の原語で書くとーー
 Car qui de sentiment ne fait,
Son ouevre et son chant contrefait
つまり「本当の内心の情熱なしに、表わそうとする感動を自分で感じないで、ものを書いたり、作曲したりするのなら、何もしない方がましである。なぜなら、それはつねにうそだからだ」ということである。
 
 これはギヨーム・ド・マショー(一三三〇?−一三七七)で、ルクセンブルク伯ヤンの秘書だった、アルス・ノーウァの代表的作曲家・詩人である。この文章は『Remede de Fortune(運命に勝つ方法)』の四〇八行から、と中世フランス文学の片山幹生氏に教えてもらった(玉城訳書にあった原文も片山氏のご教示で訂正した)。
 つまりこれはヴァン=ルーンの言葉ではなく、ギヨームド・マショーの言葉の引用とその英訳なのである。ヴァン=ルーンの英訳は「He who writes and composes without the true inner fire will always be a phony」だが、原文は「fait」(炎)と「contrefait」(偽物)が韻を踏んでいる。ここは、詩を書いたり曲をつけたりするという意味である。ギヨームには、近代的な「小説」の概念などない。江藤は、それと知らずに、そういう文を引用してしまったのだ。
 しかも、中世フランス文学は、どこに本心があるのか計りにくく、これにしてもギヨームの本心か、ないしはミューズあたりの発言か分からないのだ。
 『新潮45』に連載されている平山周吉の「江藤淳は甦える」は、江藤の若い頃について根掘り葉掘り調べていて面白く読んでいるが、二月号で、大学院生の江藤が、『文學界』の「文学共和国」という、世界各国の文学を紹介する欄で英国を担当することになった、というところで、ドイツは山下肇ソ連原卓也、中国は竹内実、アメリカは佐伯彰一、フランスは白井浩司という「他のメンバーは有名大学の助教授、教授であり。その中にひとり修士課程一年生の江藤が混じっているのだ」としているが、原卓也は江藤の二つ上の二十八歳で助教授ではない。話を盛り過ぎだと思った。佐伯も竹内もまだ三十代である。原卓也の場合、父・久一郎の影響もあっての抜擢だろうが、事実として違っている。
三、ところで世に『英英辞典』というものがあって、中学生の頃は何だろうと思っていたが、要するに英語の「国語辞典」である。高校から大学にかけて、英語教師は、英和辞典ではなく英英辞典を使え、と言ったりする。大学の英文科へ行ったりしたら、英和辞典なんか見ていたらさげすむ人さえいた。英文科ではオックスフォード英語辞典を引くのが勉強だったりした。私は比較文学へ行ったが、教授に言われて、コンサイス・オックスフォード辞典(COD)などを買って引いてはいたが、いつしか使わなくなった。だいたい英英辞典は、動植物の名前においてはまったく役に立たない。どちらかといえば英語辞典よりシソーラスのほうがいいと言えるだろう。
訂正、(58)で井上章一が『美人コンテスト百年史』を『美人の時代』に改題したと書いたが、『美人の時代』は『おんな学事始』の改題だったので訂正します。