ドードー鳥の人

 初夏のこと、妻が「枡野書店」で、谷崎潤一郎読み放題企画の店主というのをやっていた。私は夕方ごろ、自転車で出かけたのだが、いくらか怪しい雲ゆきが、ぱらぱらっと驟雨になり、しかも上り坂で、私はほうほうのていで、道に迷いながら枡野書店へたどりついた。そこには二人の、私と同年輩くらいの男性がいて、談笑していた。そのうちに「蜂須賀」「ドードー鳥」といった語が出て来た。ほどなく二人が帰ってしまったあとで妻に訊くと、蜂須賀正氏という大名公家がドードー鳥の研究をしていて、熱海に住んでいたから谷崎潤一郎と親しかった、というのだ。私はそんな話は初耳だったから、それはどこに書いてあるのかと訊いたが、妻はその二人からは名刺をもらったけれど、あなたには名前を教えないと言う。
 それからほどなく、村上紀史郎(きみお)という人の『絶滅鳥ドードーを追い求めた男 〔空飛ぶ侯爵、蜂須賀正氏 1903-53』という新刊書を駅前の書店で見かけたので、おっと思って立ち読みすると、正氏の葬儀の時に谷崎が「マサ、君は天才だったよ」と言ったと書いてある。だが、典拠がない。
 いろいろ調べると、荒俣宏の『大東亜科学綺譚』(筑摩書房 1991)に、谷崎が散歩の途中正氏に会って「マサ、君は天才だよ」と言ったとあるのを見つけた。葬儀ではない。だが、これも典拠が書いてなく、村上はこれを見て脚色したのだろう。私は荒俣氏に、失礼かと思ったがファックスを送って尋ねたが、返事はなかった。
 谷崎のことなら何でも知っていそうな細江光先生にも訊いたが知らないと言う。仕方ないから、筑波常治, 渋谷章「蜂須賀正氏の生涯と業績--特異な鳥類学者の人間像」(『生物学史研究』1978-81の全四回)を見たが、これにも書いてない。青木澄夫『日本人のアフリカ「発見」』(山川出版社, 2000)にも蜂須賀のことが書いてあり、私は久米正雄伝を書いた時、青木氏が久米に盗作された安藤盛について書いていたからメールしたことがあって、訊いたが知らないと言う。
 あと正氏の姉の蜂須賀年子が書いた『大名華族』という本が杉並図書館にあったから予約したが、筑波・渋谷によるとこれは貴司山治の代筆だという。ところがこれが、借りている人がいてなかなか返ってこない。しかもアマゾンマケプレでも日本の古本屋でもスーパー源氏でも見つからず、わざわざ国会図書館へ行くほどの案件でもないし、まだ見ていないがないだろう。(14日入手。やっぱり谷崎のたの字もなかった)
 もちろんグーグルブックスでも検索したが、あとかたもない。今のところ私は、荒俣さんの「創作」ではないかという線に傾いているのだが、もしそうでなかったらすみません荒俣さん。
小谷野敦
(追記)2020年7月2日に村上氏から連絡があり、出典は1953年の日本鳥学会の雑誌『鳥』で、高嶋春雄だかが谷崎から聞いたと書いてあるということでした。すみません荒俣さん。(題名も変更しました)