隅野滋子のこと

 昭和初年、谷崎潤一郎は、大阪女子専門学校英文科の女子学生たちに、翻訳や大阪弁の手伝いをさせていた。その筆頭が隅野滋子で、滋子は大正15年(1926)暮れ、大阪女専在学中に、新聞で谷崎と猫の写真を見て、猫が見たいと手紙を出し、同期の武市遊亀子とともに谷崎宅を訪れた。そのあと、昭和二年(1927)滋子はポオの「裏切る心臓」を試訳して見せたらしく、谷崎は書簡で結構な出来ばえと褒め、今使っている高等商業の秀才よりよほど出来る。下訳をやってくれるなら原書を送ると書いている。これが恐らくスタンダールカストロの尼』の英訳である。
 昭和三年初め、この翻訳は『女性』に掲載され、三月に滋子は女専英文科を首席で卒業し、大阪朝日新聞社に入る。その秋、高木治江が谷崎の手伝いを頼まれ、エロ作家だと思ったから心配して先輩の滋子に相談したら大丈夫だと言われたので、古川丁未子とともに谷崎宅へ出向いた。丁未子は滋子の同期だったが胸を病んで一年休学していた。のち丁未子が谷崎と結婚する。
 昭和四年十一月末、『大阪朝日新聞』「女人群像」にダンスホールで踊る根津松子の写真が載り、担当は隅野で、ために松子は親戚中から怒られ,隅野は谷崎から怒られるということがあった。
 この隅野滋子は、歌人岩野喜久代(1903−96)の『大正・三輪浄閑寺』(青蛙房)を見たら、岩野の妹であることが分かった。実父は酒巻貞一郎で、1907年頃、江田島軍学校官舎に生まれ、数え三歳で大阪の税関吏隅野家の養女となったという。養母は小虎。のち結婚して山下姓になり、のち夫を亡くした小虎を引き取って面倒を見たという。