凍雲篩雪

凍雲篩雪(50)小保方晴子『あの日』とマスコミ

 小保方晴子の手記『あの日』(講談社)が刊行されたのは一月二十九日である。アマゾンレビューでは現在(三月二日)五〇〇を越えるレビューがつき、五点が三六三、一点が一三〇程度となっており、擁護派と批判派で激しい論戦がそのコメント欄で行われている。また「リテラ」でエンジョウトオルという人が、複数で研究していたのが、たまたま小保方が目立ったためスケープゴートにされたが、小保方が混入や捏造に加わっていないとは言い切れないと論じている。
 小保方は若山照彦にハシゴを外されたと批判しており、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した毎日新聞の須田桃子も、報道被害というほどのひどい取材をしたと批判されている。
 私は読んでみて、STAP細胞なるものがあるかどうかは分からないが、若山がろくに説明もせず逃げているのは確かだなと思ったし、小保方がスケープゴートにされたというのも事実だろうと思った。騒動の当時、私も女性週刊誌の求めに応じて、小保方氏に悪意あるコメントを寄せたので、小保方氏には詫びる。
 ところが、雑誌メディアは、ほぼこの著作の内容については無視するか揶揄している。『週刊ポスト』の連載では呉智英が、詐欺師小保方の頭脳が他国の謀略機関に利用されたらことだ、などと評しているが、不可解なのは『新潮45』三月号の小畑峰太郎で、小保方を罵倒する記事を書いている。「味噌汁で顔を洗って出直してこい」というえらい下品なシロモノだ。小畑といえば、『STAP細胞に群がった悪いヤツら』(新潮社)という、同誌に連載したものをまとめた著作を出して、理研は小保方をスケープゴートにした、と書いた人である。それがなんで突然、小保方罵倒になるのか。それで、『STAP細胞に群がった悪いヤツら』を読んでみると、若山照彦に対しては妙に追及が甘いのである。大和雅之、笹井芳樹野依良治といった理研の面々は「悪いヤツら」に入れているが、若山は、はじめ申し訳程度に、若山照彦の事情、などと書かれているが、その後は「理研からハシゴを外された」「最初からES細胞の混入を恐れていた」などと書かれており、なぜか突っ込んだ取材や追及がない。それどころか、山梨大学の人に、圧力はかかっていないか、などと質問している。どうやら小畑の背後には若山がいる、ないしは何かの事情があると思わせてならないのである。
 アマゾンでも、林田直樹という山口大講師が理系の学者として批判的レビューを書いたがあとで削除したようだし、わあわあ批判しているのも匿名である。つまりちゃんと議論されていない。すでに議論は出尽くしたのかといえばそうでもなく、小保方著には、若山が「STAP細胞は自分が作った」と米国で取材に答えて発言していることが紹介されている。
 これより先に、佐藤貴彦『STAP細胞 残された謎』(パレード)というのが昨年十二月に刊行されている。佐藤は一九六〇年生まれ、名古屋大学理学部卒だが、評論家らしく、経歴はやや不明だが、「小保方がES細胞を盗んで混入させた」という世上に流布するストーリーの矛盾点を的確に突いている。もっとも、私はこの複雑な生化学の話が理解できているかどうか疑わしいので、反論がある人は反論したらいい。
 『週刊新潮』に「反オカルト論」を連載している高橋昌一郎は、二回にわたって小保方を攻撃して、「盗人猛々しい」などと書いている。窃盗罪で告発されている件について触れていないのはおかしい、としているのだが、警察から、捜査中なので詳しいことは口外しないよう言われているのかもしれない。また「都合の悪いことは書いてない」などと言われているが、自殺した笹井良樹に関わってくることは書けないだろう。高橋は佐藤貴彦の本を読んでいないのではないかと思うが、バカンティから大和、若山、笹井などが、小保方一人にやすやすと騙されたなどと想像することは、あたかも小保方が魔法使いででもあるようで、「反オカルト論」なのにここでは高橋がオカルトになってしまっている。
 ミネルヴァ書房から出た皇學館大学教授・守本友美の『らい予防法下におけるソーシャルワーク実践』は、剽窃が明らかになり絶版・回収されて、守本の博士号は取り消されたが、皇學館大学では停職三ヶ月の処置に終わった。だが世間はまったく騒がない。こういう事例と比べたら、小保方への攻撃が異常であることは明らかであろう。佐藤著には、理系で起きた論文不正の数々をあげているが、それに比べてもおかしく、どうも大方の人がマスコミに踊らされているようである。
 ところで『あの日』はいろいろ印象深い本なのだが、「文学的表現」について揶揄する人がいるのは私などからすれば笑止千万である。なぜなら、プロの作家が書いた小説にも、これはどうかなというような「文学的表現」があるからで、現に小野正嗣芥川賞をとった「九年前の祈り」にも、そういう箇所があることを福永信が指摘している。私自身は、その手の「文学的表現」を使わない。ところで前にも書いたが、小保方が「スタップ細胞はあります」と発言したのを「ありまーす」などと表記するのは断固許しがたい、むしろこれこそ事実の歪曲である。
 後半の、マスコミの取材攻勢のすさまじさも印象に残るが、これなどはその昔「パパラッチ」とイタリア語で言われていたものである。むしろ前半の、『ネイチャー』『セル』などの海外の権威ある学術雑誌に投稿して、リジェクト、リヴァイスを受けて書き直すあたりが私には興味深かった。つまり、真実を追究するという学問的営為ではなく、いかにして権威ある学術雑誌に載せてもらえるか、というところに、多くの研究者の目が行っているからだ。
 ここで、査読制度の問題点も浮かび上がるのだが、査読者が論文を読んで掲載拒否した時に、査読者がそのアイディアを用いて自分が先に発表してしまう危険性がある。これは小説の公募新人賞でも私が気になっているところで、全体としての出来は良くないというので落としておいて、アイディアは盗まれるという恐れ、ないしそれが現に起きたといったことはネット上で指摘されている。理系ではなればこそ、早く論文を掲載させるために拙速な処理をするということにもなる。

 さて本誌二月中旬号に田井郁久雄という人が「図書館の発展は出版文化も発展させる」を書いている。内容は、図書館のベストセラー大量購入への批判への反論だが、ここでは新潮社あたり、およびベストセラー作家の、図書館が買うから本が売れなくなるという批判への反論しかなく、私がその前に書いた、その購入費で学術書を買えるではないかという批判には答えていない。皮肉にも同号の館野翛による『深沢夏衣作品集』の書評末尾に、こういう高価な本を公立図書館で備えてほしいと書いてある。田井はこの批判に答えるべきであろう。