私の小説集『東海道五十一駅』のアマゾンレビューを見ていたら、山口草至という人が長いのを書いていて面白かったので転載しておく。

 白状すると、私は著者がアメーバで公開している、「ロクシィの魔私小説版」の方を先に読んでしまった。途中から現れる「〜したよ。」「〜しやがった。」のような、著者が不断用いない種類の語り口にはじめ戸惑い、話が進んでいくうちに、この語り口に言いようのない快感をおぼえた。この小説が途轍もない作品であるということを、それから理解した。
 著者の小説を私もいくつかは読んできたが、「ロクシィの魔私小説版」は、圧倒的だった。地獄絵図か、あるいはボッシュの「快楽の園」のような人間の汚点と狂気の集積地としてのSNS。世の中にはこんなにもおかしな人がいるのか、人間とはこんなにも歪な形状をしているのか、という感動にしびれた。「ちょんの間」のところとか、興奮したし。
 これは是非、と思い「ロクシィの魔」の方も読んだ。大きく違うのは最初と最後で、「私小説版」では主人公はいつもの藤井だが、こちらは立大出の通俗作家、ということになっている。いつもと異なる語り口は、『悲望』や『母子寮前』の「私」から視点をずらす目的があるとも読める。
 「私小説版」の最後の、心理学者のところは丸ごとカットされているが、ここは凄いところであっただけに惜しい。というか、「私小説版」にあってこちらには無いものも、おもしろいところばかりだ。
 細川のところは、女に騙され金を巻き上げられる、という点で西村賢太の「けがれなき酒のへど」に似ていたが、こちらは風俗嬢とかではない上、なにしろ「外面似菩薩」だから、無理もない、という気になる。菩薩が精神分析にハマるスノッブで「おかしい」、しかし最後まで未練たらたらなど、ともすれば典型的な風俗嬢への貢ぎを描いた西村より、優れていると思う。
 ただやはり、「私小説版」のほうが面白かった。純文学は、「私小説化」の度合いが強まれば強まるほど面白いのかもしれない、とおもった。もちろん「ロクシィの魔」だけだって、破格の面白さだし、私小説だろうが。
 一方で、小説の面白さ以外にも、この本を読んでの収穫はあった。「ロクシィの魔」の2バージョンを読み比べてみて、やっと少しは私小説がわかった気がするのである。人間を正着に描くというとき、その醜さ、不可解さ、狂気をこそ、そのままの形で理性的に捉えねばならないのだ。
  「ロクシィの魔」のよりフィクションが混入した「俺」にも、学歴を揶揄しながらもその原則は忠実に守られているし、その意味でこの「俺」は「私」たりえ、この小説は私小説たりえるのである。『私小説のすすめ』に書いてあったはずのことだが、やっと意味がわかった。
  「私小説版」でもこの粗野ともとれる語り口が残されたということは、この文体の用いられる理由は、視点をずらすとかいうことよりも、この内容自体によるところが大きいのだろう。はじめは純粋私小説であるということでいつもの藤井が登場し、「私」の自称が用いられるが、それがいつの間にか元の「俺」の口調に転換するのは、やはりこの小説が他の私小説とは根本的に違うからだ。それは体験の質的なちがいで、この体験が藤井の淡々とした叙述や、ストーカー・童貞といった他作品での彼の有様にそぐわなかったから、小野魁太郎なるもう一人の「私」が現れたのではないだろうか。
 ただ実際これが私小説であるならば、他作品同様、この体験は藤井のものとして語られてよいはずだ。他作品を読んでいようがいまいが、小野を「私」と見做すことはできるとしても、一方で小野は藤井とは全くの別人である。
 半分は作り事である、という非難を除けるため、もう半分は作品自体の私小説としての完成のために、この体験は藤井の手によって語り直されたのだろうし、だから私は「私小説版」により優れていると言った上で、こちらの「小野版」も、それに限りなく近く、優れていると思う。