岩瀬法雲という人

 岩瀬法雲という人がいた。名前を見ると坊さんのようだが、坊さんである。しかし『源氏物語と仏教思想』という本を書いている。この本の奥付には「明治三一年、大阪市東住吉区生まれ。その後のことはあとがきに」とある。で、あとがきを読むと、農家の次男に生まれ、重五郎と名づけられたが、家が没落したため真言宗の寺の養子になり法雲を名のる。高野山で学んだのち慶應義塾へ入って英語を勉強していたという。大正九年、22歳の時、「大阪朝日新聞」が懸賞小説を募集していたので、「足」という80枚の短編で応募した。選者は、有島武郎正宗白鳥厨川白村であった。これが忘れたころに当選した。
 連絡が寺のほうに行って、変名で応募していたので、そんな者はいないと言ったのだが最後には分かった。これが、有島が先に読んで、普通に選考すると白鳥も厨川もとらないだろうから、ととっておいて出したのだという。で、四月から五月まで朝日新聞に岩瀬重五郎「足」として掲載された。
 岩瀬はそれで作家を志し、慶応を退学して有島宅に寄宿したが、大正12年7月、有島は波多野秋子と心中。もっとも岩瀬はその前に有島宅を出ていたという。で、行き場を失い、学歴もないから、岩瀬は淡路島の小学校の代用教員となり、昭和二年に中等学校教員検定に通ったが、中学校教員の口がなく、昭和16年、43歳でようやく中学校教師となる。戦後は甲南女子短期大学教授、園田学園女子大学教授を務めたという。『源氏物語』を研究して、秋山虔の世話になったというが、秋山は20歳以上年下である。
 著作は以下の通りだが、
『解釈と教授』同志同行社 同志同行叢書 1934
『高等小学読本第一義疏』同志同行社 1934-36
『第一義の綴方教育』同志同行社 1938
源氏物語と仏教思想』笠間書院 1972
 1972年には74歳で、そのあといつ死んだか分からない。
小谷野敦