「出口」と「種村」

 『en-taxi』の最終号が届いた。この雑誌は、創刊号から送られてきて、しかるにいっぺんも原稿依頼がなかった。まるで玄関に黙って立っている女のようだ。
 さてそこに、坪内祐三による出口裕弘の追悼文が載っていたので読んだのだが、どうもおかしい。種村季弘の『書物漫遊記』からの引用があり、大学教師をしていない時期(1976年らしい)に、ひんぴんと電話がかかり、「一橋の教授になったんだって?」と言われ、狐につままれたような気分で(a)、一橋にいる出口に電話したら、「面倒なことにはならないだろう」と言われ、「俺の名前もあの手帖に載っているが、肩書きは評論家とかだよ」と言われ、出口と種村が取り違えられていることに気づく。そのあと窪田般彌に会って出口の話が出て,窪田は、出口、種村って名前の学生には単位やってると言い、どういうわけかコンピューターにかけると、出口、種村ってのは続けて出るのね、と言う。それで種村は、分かった! となる。
 ひどく分かりにくいので、図書館で『書物漫遊記』を見たら、(a)のところに、潮出版社の文化手帖の人名録にそう書いてあったことが分かった、だが寄稿した文章に、編集者がそれを見て勝手に「一橋大学教授」としたから、一橋から肩書詐称で訴えられるんじゃないかと恐れて出口に電話した、というのである。坪内は地の文でそのことを書いていないから分かりにくいのだが、もしかすると編集の手違いでそのへんの文が脱落したのかもしれない。
 さらに謎はある。種村は、「た」と「で」の間はずいぶんあるのに、と書いていて、ではなぜコンピューターでは続けて出るのか、探究していないのだ。
 恐らく76年当時のコンピューターは、漢字を音読みしていたのである。だから「種=しゅ」と「出=しゅつ」が続けて出るのである。種村季弘もそこまでは分からなかったのだろうか。
小谷野敦