西尾幹二名誉毀損で訴えられたという中川八洋の『脱原発のウソと犯罪』を図書館で借りてちらちら読んだら、確かにむやみと口汚くかつ「コリアン宮台真司」とか根拠もなく書いているのだが、おおむね首肯できる内容であった。しかしそれなら江藤淳も批判したらいいのに、とは思ったけれど。
 あと気になったのが、西尾の悪口を注で書いていて、「西尾の大著『ニーチェ』はニーチェの伝記でしかない。伝記は文学であって哲学ではない」というところである。
 じゃあ文学者の伝記は「文学である」ことになるのか? まず「伝記は文学だ」というのは「文学作品」だということなのだろうか。ここでは「文学」という曖昧な語と「哲学」という曖昧な語が曖昧に処理されている。「学問」ということでいえば、伝記は立派な学問である。対して「哲学」というのは、学問かどうか疑わしい。たとえばニーチェの一般的に読まれている著作は学問ではない。『ツァラトストラかく語りき』なんてどう見たって小説である。
 かつて西尾が誰かと学問の堕落について対談して、誰だか忘れたが相手が「学問は実証です」と言ったのに、西尾が、「哲学には思弁という方法もあります」と反論していたことがあった。
 だが「思弁」は学問ではないのじゃないか。プラトンソクラテスが言っていることは、近代的な意味での学問ではない。哲学が学問たりうるのは、先行テクストを訓詁注釈する時だけで、実際にはそういう「哲学学」をやっている「哲学研究者」というのはたくさんいる。だがハイデッガーあたりになると「思弁」になる。ではハイデッガーは学問ではないかというと、これも難しい。哲学の領域では、偉くなると思弁も学問になるということがあるからだ。