文学少女のその後

北村薫さんの「円紫さんとわたし」シリーズの新作が、『小説新潮』一月と四月号に載っており、一月号の「花火」を読んだ。「わたし」も私と同じくらい年をとり、89年に大学二年だったから、46歳くらいで中学生の子供がいる編集者になっている。担当作家が大きな文学賞の候補になり、その結果待ちに新潮社へ行くというところから始まる。授賞はならないのだが、これは北村さんが直木賞の結果を待った時の体験を元にしているのだろうが、新潮社の本で候補になったのは2004年の『語り女たち』が最後である。
 そこでヒロインは、復刻版新潮文庫を入手し、ピエール・ロティの『秋の日本』を見つけて、これが題材となっている芥川龍之介の「舞踏会」の考察に入っていく。
 「舞踏会」では私も思い出があって、初めて学会発表をした時、市川裕見子さんがこれについて発表していたのである。この時の情景は『中島敦殺人事件』に転用されている。
 さてヒロインが解き明かすのは、三島由紀夫の勘違いで、三島は乱歩を交えた座談会で、ロティが、ギリシャには煙草と小説はなかった、と言っている、と発言しているのだが、ヒロインは、「ギリシャに煙草という楽しみはない」と書いたのはピエール・ルイスで、アルベール・ティボーデが『小説の美学』でそれに触れて、もう一つ、ギリシャには小説がなかった、と書いたのだとする。ヒロインは心優しく、三島が間違えるはずはないから、文字起こしの時間違えて、三島もゲラを見なかったのだろう、と推理する。
 つまりこれは「新潮社小説」なのだが、こんなん、私以外に誰が楽しむんだ、という気もする。実はこれ、三島の勘違いだろうと私は単純に思うのだが、そこまで考えさせるための小説であろう。
 だがちょっと傷もあって、このヒロインは、戦前の新潮文庫の復刻版の後ろを、どんな本がほかに出ていたか、確認するために見るのだが、こんなに本好きなヒロインが、『新潮文庫総目録』を持っていないはずはないのである。とそこまで考えさせるのも小説の仕掛けか。
 なお「舞踏会」については、主題は「時間」である、というのが一番切れ味のいい評言で、私も市川さんの発表の時にこれを言ったのだが、誰かの受け売りである。
小谷野敦