凍雲篩雪(七月)

 木村朗子の『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』(青土社、二〇一三)は、まえがきで奇妙なことを言っている。東日本大地震のあと、震災や原発について語ることがタブーになってしまい、それについての文学もきちんと現れていないというのだ。木村はもともと平安朝文学が専門だが、博士論文からフェミニズムのような政治的意味合いの強いものを書いていた。もっともこのまえがきは何とも読解不能な書き方で、難解ではないのだが、ある言葉がどこにかかり、この言葉は何を示しているのかが判然としないのだ(詳しく聞きたいというなら詳しく教える)。つまり、実際にはタブーになったなどという事実はないのに、あったかのように書いているととれる。
 この手の陰謀論地震直後から、地震兵器とかいうトンデモなものから少しはまともなものまでひとそろい出ていたが、電気会社がスポンサーになっているテレビ番組では原発のことが言えないということがあるとしても、朝日新聞や『週刊現代』などは盛んに騒いできたし、逆に中川恵一のように、実に分かりやすく御用学者を演じてくれる人もいる。菅直人がブログで、みのもんたは反原発を言ったからはめられたのだと言った時は、こういう人が総理をしていたのかとぞっとしたものだが、不思議と週刊誌などが取り上げることはなかった。
 私は大阪にいた頃、関西電力の取材を受けたことがあり、そのため、同社の雑誌『躍』というのが送られてきて、これを見ると、電気は重要ですといったマスコミ的有名人のエッセイが載っていたりして、なるほどと思わせる。だが原発は別にタブーになるほどのことはないのであり、タブーになっているのはむしろ自動車批判のほうである。
 木村の言うのはあまりにバカバカしいのだが、沼野充義は「東京新聞」の文藝時評で取り上げていた。また『ちくま』六月号で、斎藤美奈子が真正面からこれを取り上げ、全部本気にしたふりをしているので、これはとうとう斎藤もヤキが回ったかと思ったものである。ところが『新潮』六月号の、浅田彰東浩紀の対談「「フクシマ」は思想的課題になりうるか」を見たら、浅田はそんなことに何の意味もない、一斉に原発がどうとか言い出すのはおかしいので、昼寝していることが必要だと言っている。事実認識としては浅田が明らかに正しい。斎藤美奈子は、今こそ震災後文学が書かれなければならないと言うのだが、いったいぜんたい、作家に向かって、今こそ何何を書かねばならないなどという言説が、戦時下の戦意高揚文学と同じであることに気づかないのであろうか。これは動員の思想というもので、作家が何を書こうが作家の勝手である。
 すると片山杜秀が「朝日新聞」の文藝時評(五月二十六日)で浅田の「よほどのバカや偽善者」が原発事故などに拘泥する、という発言をとりあげて、「筋はとおっている」と言いつつ、「文化人の冷笑主義」と批判し、「バカや偽善者」のほうがいいと言い、斎藤はこれあるかなと引き合いに出して片山に同調している。木村朗子の「嘘」に同調したこともすっ飛ばし、前回評価したいとうせいこうの『想像ラジオ』も、今回は原発が出てこないと評価ダウンするというご乱心ぶりである。大新聞の文藝時評がこういう論調であること自体、木村の言うのが事実でないことを如実に物語ってしまっている。
 浅田がこれに反論する気があるのかどうか知らないが、片山や斎藤は「偽善者」の意味を理解していないのではないか。「偽善」については、いずれ一書を著すつもりだが、たとえば富豪や企業がしかるべき寄付をしたら、それは偽善ではない。エコロジーを唱える者の趣味がドライブだったら、それは最悪の偽善である。また、女に仕事と育児の両立は可能だという女が、自分の母親に育児を委ねていたら、これもかなりたちの悪い偽善である。原発は日本では誰一人殺していないが、自動車は全世界でこれまで数千万人、日本で数百万人を殺しているのだ。この言葉は、原発擁護論者から出たものとして、それこそ冷笑的に持ち出されることがあるが、事実は事実である。ではなぜ反原発デモをしている人びとは、反自動車のデモをしないのか、また発言しないのか。
 私は十数年前から、帯広畜産大学杉田聡氏らの「クルマ社会を問いなおす会」に入っており、その後、経済的に苦しくなった時に辞めてしまったが、自動車に関する発言は続けている。ミクシィにも「ドライブ撲滅運動」というコミュを作っているが、会員は今のところ十二人しかいない。嘲笑されたこともある。原発即時停止などすれば、電気が足りるのかという問題もあれば、日本の経済に打撃を与える。それでもいい、明治時代のような生活をしましょう、と主張するのも結構だが、それならなぜ、現実に年間数千人を殺している自動車を全停止しようと言わないのか。どれほど不便でも構わない、人命は何より大切だと言わないのか。広瀬隆の『危険な話』が売れた時も、市民的エゴイズムと批判されたが、要するに上野千鶴子のようにカーキチで自分が自動車に乗りたいだけではないのか。これはきわめて悪質な偽善である。
 中川恵一の発言や、WHOの怪しい動きから、煙草は原発スケープゴートの一つだったらしいと分かった。そして原発は、クルマのスケープゴートになっているのである。世間が反原発で騒いでいるのを見て、自動車会社の重役は笑いが止まらないだろう。マスコミの中で、タブーが一番利きにくいのは週刊誌だが、その週刊誌ですら、自動車会社は大切な広告主だから批判できない。NHKならできるはずだが、やらない。「交通戦争」と言われた六〇年代には割と盛んだった。
 かつて大江健三郎と息子の大江光の番組が放送されたことがあった。その中で、大江の次男の桜麻は、光を作業所まで送って行っていたが、それは小田急線の成城学園前から、下北沢で乗り換えて、京王線千歳烏山駅までという遠回りの手段を使っていた。途中でてんかんの発作を起こす可能性もある。私は大江が、自動車を使わないという倫理を把持していることを感じ、感銘を受けたものだ。
 かつて筒井康隆が、てんかん患者に自動車を運転してほしくないと言った時、これを批判した浅田に、そういう視点があるかどうか疑わしいが、少なくとも私においては、「自動車批判をしない反原発は悪質な偽善者」である。これのどこに冷笑主義があるというのか。近ごろ、若者のクルマ離れが進んでいるという。これは経済関係のニュースとして、自動車会社の重役の、どうしたら若者を自動車へ取り戻せるかといった経営上の問題への対処のコメントがつくが、決して記者による、自動車離れは歓迎すべきことだなどというコメントはつかない。私は、煙草がこれほど罪悪視されるなら、自動車もいけないだろうという若者の健全な倫理感覚の現れだと思う。