立原正秋と円地文子

 1972年、『諸君!』に「男性的人生論」を連載していた立原正秋が、芥川賞の運営を批判して、編集部から一部削除を求められ、それには従ったが連載の場を『潮』に移して改めて批判を行ったことは前に書いた。立原は、もともと自分は純文学作家だと思っていて芥川賞が欲しかったので、直木賞は貰ったが不満だったようで、その際、「阿部昭、山田智彦、後藤明生李恢成、森内俊雄、斎藤雅子」ら、書ける人に芥川賞をやらない選考委員を「老害」として、特に舟橋聖一を批判した。
 さらに立原は、自分が選考委員をしている谷崎潤一郎賞円地文子が貰い、武田泰淳がそれを選評で批判したことにも触れた。
 その頃、「キアラの会」という作家の会があり、舟橋を筆頭に、野口冨士男らが集っていた。吉行淳之介が編集長をやることになり、舟橋に、「拒否権を発動したい人は誰ですか」と訊いたら数名をあげた。立原がいなかったので、野口が、立原は、と訊いたら、ああ、あいつもダメだと言った。だが舟橋はその頃は目が見えず、76年に死去した。立原は追悼文を『文學界』に載せて、これらのことを書いた(『立原正秋全集22』)。
 立原は、舟橋の作品として『悉皆屋康吉』が名作だと言っており、それだけに今の舟橋は老醜をさらしていると言うのだが、さて『悉皆屋康吉』が名作だと、私は思わない。舟橋なら、『ある女の遠景』と『好きな女の胸飾り』だろう。
 さらに立原は、舟橋は自分をなきものにしようとしたが、実は政治力がなかったのでできなかった。しかし、『男性的人生論』は、新潮社から出るはずだったのに、さる政治力のある人物から最後に圧力がかかって出せなかった、その人の名を、私がそちらへ行った時に教えてほしい、として追悼文を結ぶのだが、既にそれは『源氏物語』の現代語訳を新潮社から出すことになっていたので、とあって、円地であることが分かる。そして立原は、それから三年後、彼の冗談の中では、舟橋のいるところへ行った。
 ところで先に列挙されたうち、李恢成はのち芥川賞をとるが、「斎藤雅子」とは誰か。この作家は芥川賞の候補になったことすらない。『悲しみの人魚の歌』という中編を『早稲田文学』に載せて、これを読んだ川端康成がなぜか絶賛し、芥川賞候補にならなかったと、選評で不満をぶちまけた人である。以後斎藤は小説を書くことはなかった。あとまあ森内も、冬樹社の編集者で、『岡本かの子全集』の担当で川端とはつきあいがあった。阿部昭の「大いなる日」は舟橋は推している。
 立原は、鎌倉文士として、川端や里見とんを尊敬していた。その川端は『山の音』で野間文芸賞をとっているのだが、実は川端は選考委員である。武田泰淳や立原に、あんたらは円地を攻撃するが、あんたらの尊敬する川端もやっているじゃないか、と訊いてみたかった気がする。当時誰も言わなかったのだろうか。
 なお私は立原の小説をまったく評価しない。