勘違いをしていたことに気づいた。私が『批評空間』に投稿して載った時、千葉一幹東浩紀が一緒だったと思っていて書いたこともあったが、最初に載った時は第四号で、千葉はいたがそれだけ。東、千葉と一緒だったのは一年後の第八号である。
「凍雲篩雪」
 勉誠出版が『私小説の冒険』シリーズを刊行している。長いこと迫害されてきた私小説が、ささやかにでもこうして顕彰されるのは嬉しいことだ。もっともこのシリーズに私の私小説が入らないのは残念だが、それはいいとしよう。その副産物で『私小説ハンドブック』という分厚い本も出た。秋山駿と勝又浩の監修で、勝又が主導したのだろう、法政大学関係の研究者が執筆している。ここでも、実作者としても理論家としても、私に触れているのは斎藤秀昭氏だけで、ほかは一切無視した上、里見紝を立項したところでは、「里見の評伝はいくつもあるが、最新の小谷野敦里見紝伝』(中央公論新社)をあげておく、とある。だが私のものは初の里見伝で、この筆者はほかにどこでいくつもの里見の伝記なるものを見たのだろう。しかしまあ、私のものをあげてくれたのだから、いいとするか。
 だが、掲載された論文を拾い読みしていると、「私小説は定義があいまいで」といった文言が散見された。定義が曖昧というなら、SF小説だって少女小説だって推理小説だって純文学だって何だって曖昧である。辞書的な定義を持ち出すなら、国語辞典でも文学事典でもいいから、「私小説」を引いてみればそこに定義はあるのだ。多くの論者がなぜか鈴木登美の『語られた自己』(岩波書店)という私小説論に論及しているが、おおむね誤読している。確かに鈴木は、私小説については、私小説を語る「私小説言説」は日本近代において、久米正雄小林秀雄以来、数多くあらわれたが、きちんと定義しようとするものはなかった、と言っている。だが、「私小説は定義が曖昧だ」というのもそうした私小説言説の一つであって、私はだから『私小説のすすめ』(平凡社新書)で、とりあえず定義をし、海外にも実際には私小説は少なからずあると論じたのだが、これは斎藤氏以外の論者はまったく触れようとしない。どうもこの人たちは、いつまでも私小説を、日本独自の形式にしておきたいようだ。(活字では斎藤秀昭氏を斎藤広昭と書き間違えている。お詫びします)

 小保方晴子が記者会見をしたあとで「信じる」といった言葉があちこちに現れたのもおかしいので、笹井良樹が言うとおり、科学は信仰ではない。ただし、自然科学において素人には判断がつかないから、ある程度のところで、専門家の言を信じるということにはなる。医療における「セカンドオピニオン」というのも、一人だけでは信用しきれないからである。宮崎哲弥が『週刊文春』の「時々砲弾」で書いていた通り、STAP細胞だか現象だかについては、しばらく様子を見て、それまでは判断を差し控えるというのが正しい姿勢だろう。しかし、笑止千万なのは、マスコミを中心にめぐる通俗人文・社会科学の世界では、梅原猛文化勲章をもらい、平気で悪意あるウソをつく上野千鶴子が文化英雄のごとく、学術的業績などなく、ただ江戸時代について幻想をふりまいてきた田中優子が法政大総長なのだから、小保方と同じ水準で批判されたら、いずれも社会的に抹殺されなければなるまい。
 斎藤美奈子が『ちくま』五月号で、ヘイトスピーチの法による規制の必要性を説いているとしか思えない文章を書いているのを見て、私はわが目を疑った。フランスでも差別表現は刑法上の罪になるが、これは断じて真似してはならないもので、一種のスターリニズムである。斎藤は何やら、「マイノリティへの」ということが免罪符になるかのように書いているが、在日韓国人の大学教授がいる日本で、何ゆえマイノリティか。アパルトヘイト南アフリカの黒人とは違うのである。言論には言論をもって立ち向かうべきであり、テロはもとより、国家による刑事罰は許されるべきではない。