栗原さんと高田馬場で対談した日は、駅を降りて向かい側へ渡り、路地へ入って一服しようとしたら、いきなり何かが頭に当たった。落ちたのを見ると、チキンナゲットの断片のようだ。隣の高層雑居ビルから落ちて来たらしく、あとで調べたら稲門ビルという。上を見上げたが、窓のようなものはなく、向かいの店のおばさんも、怪訝そうに上を見上げていたから、何か続いて落ちて来たらしい。屋上で工事でもしているやつが落としたんじゃないかと思い、牛乳瓶だったら怪我するぞと、ビル管理会社に訊いてみようと思ったが連絡先が分からずそのままになった。
 対談が終わり帰宅したが、新宿から乗った京王線に、地味な服装で、そんなに顔も悪くない三十くらいの女性が乗ってきて、ドア脇のニッチにもたれ、鞄からハードカヴァーの分厚い本を取り出して読み始めた。どいつもこいつもスマホを眺めて呆けているご時世、好感を抱いて本を見ると、水村美苗の『母の遺産』で、図書館から借りた本だった。その質素な感じ、カヴァーなどかけて隠さないところがまた好感を覚えた。私は以前は、自著を図書館本で読まれると怒ったりもしていたが、最近では、読まずに何か言うやつが多すぎるので、図書館本でも読んでくれたらありがたいと思っている。
 水村美苗って変な人気があるよなあと、私は杉並図書館で調べたら、『母の遺産』は17冊の所蔵があり、70人以上が待っていたから、ひえーと思い、買った。
 もとよりこれは「読売新聞」に連載されて、朝日新聞大佛次郎賞をとったもので、あらゆるメディアから愛される水村ならではというところか、『本格小説』が『嵐が丘』を下敷きにしていたように、これは百十年前に「読売」に連載されて大人気を博した尾崎紅葉の『金色夜叉』を下敷きにしている。とはいえ実際は私小説で、『高台のある家』の著作のある母・水村節子が2008年11月23日に87歳で死んだ前後のことをもとに書かれている。
 実ははじめのほうで、母はかっこいい従兄に憧れておりその人は横浜の女子大に音楽学部を作って学部長も務めた人で、メトロポリタン歌劇場で「蝶々夫人」を歌ったプリマドンナと結婚した、とあるのが、あとのほうは嘘だろうと思って興ざめし、アマゾンで一点をつけてしまったのだが、あとでこれは削除する。
 ここに出てくるのは、大学教授である夫が女を作ったことをヒロイン(美津紀)が知って、離婚の決心をするという話で、そうなれば当然、『私小説』で「殿」と呼ばれていた岩井克人のことである。そこで出て来た姉「奈苗」も今回出てくる。
 夫は平山哲人となっていて、茨城県取手の貧しい家の出身で、開成高校へ行ったことになっている。これは茨城県に「岩井」があったからか。岩井克人は渋谷の生まれ。で、過去にも浮気をしていて、同僚の妻の三歳年上とか。今回は、妻が夫のベトナム出張中にそのGメールを見てしまう。前に聞いたパスワードを入れてみたら、女とのメールが見られる。夫は妻の写真を女にせがまれて添付しており、女は、「あんまり気の毒で、正直、比べる気にもなんなかったわ」と返事しており、妻は泣き伏す。
 だが、水村美苗の写真なら、添付しなくても見られるだろう。だがここは、流布している写真は古いので、新しい、つまり老いた写真を送ったとみてもいい。女は独身で、その時点で40前なのだが、私は誰だかだいたい見当がついた。で、いかにもそういうことを言いそうだな、と思った。だが夫が離婚しようとしないのは、母の遺産が目当てだという話。だが現実には、愛人の女にも夫がいたのではないか。
 結局離婚したのかどうか知らないが、まあこれを小説に書いた以上は、どっちも離婚したか、ないしは愛人のほうがすでに離婚していたか、であろう。
 だが、不思議とこんな半実録小説が連載されていても話題にならなかったのは、俵万智が、子供の父親の正体を明らかにした『トリアングル』を連載していた時と同じで、これはつまりマスコミが騒がないと、一般読者は自分では見つけ出さない、ということもあるし、「プライバシーについての自粛」という最近の嫌な雰囲気もあろう。水村は大佛次郎賞受賞式で「うしろめたい」と語ったが、それは小説の出来が、本来の意図をうまく出せなかった、つまり母の話より夫と愛人の話のほうが実は書きたいことで、実際そちらのほうがずっと衝撃的だということがある。実のところこの小説、母親とその母親の因縁話も出てくるのだが、夫の浮気の部分のほうがずっとゴシップ的にも面白いのである。
 だが、水村が「うしろめたい」と言ったのは、それを書いてしまったうしろめたさが表面だが、実は、そのことが世間で騒がれなかったことへの淋しさというのがあっただろう。自分のことを書く作家というのは、それが騒がれることを密かに願っており、騒がれないと、要するに自分、および岩井克人知名度って低いんだと思って、淋しいのである。
 つまりこれは「ゴシップ小説」だったのである。私が一点評価を変えたのは、そのせいだ。
(付記)
http://book.asahi.com/booknews/update/2012121600001.html
 ここに「虚構」だとあるが、まあ離婚しなかったとしても、浮気は本当だろうと思う。というのは、夫があてにいているという母の遺産が、三千万ちょっとしかないのである。そんなはした金を目当てに離婚しないなんてありえなくて、これは実は浮気の相手に夫がいたからだろうと思う。それなら金額を上げればいいのだが、そこを失敗したためにこんなことになったのだろう。
小谷野敦