凍雲篩雪(昨年十月分)
 優れたデータベース「配役宝典」を運営し、営々と充実をはかっている野口義晃氏は、大河ドラマの配役で、クレジットタイトルで分からないものについてはNHKの窓口から質問をしていた。しかし、あまりに毎週のことなので、あちらが音をあげて、これ以上配役についての細かな質問には答えられないと言ってきた。野口氏は異議を申し立てたが、NHKでは、いったい何が目的なのかと訊いてきた。野口氏は「研究です」と答えたが、うまく理解してもらえなかったようだ。
 ここで野口氏が大学教授などであればある程度対応は違ったのかもしれないが、それでも、ドラマの配役の調査を「研究」として認知しない状況がある。だが、それは何もドラマの配役だけではない。私は学者や翻訳家のバイオグラフィーを調べることがあるが、時にどう調べても没年が分からないことがある。そこで所属していた大学に電話すると、「個人情報ですので」と言う。しかし、場合によっては新聞に訃報が出るレベルの人なのである。さらに訊くと、「どういう目的で」と訊かれるから、「研究です」と言う。すると「どこかに書かれるのでしょうか」と言う。将来的に書く可能性もないではないのだが、とりあえず調べておくという程度だ。それはともあれ、学問というのは、それ自体が目的であって、調べるために調べるものだ、ということが、世間では理解されていない。もっとも、一般庶民が、「そんなこと調べて何になるんだ」と言うのは分かる。逆に図書館のレファレンス係などはこれを理解しているが、たとえば政府筋などは、分かっているかどうか怪しい部面もあって、だから、ノーベル賞をとるような研究を、などと言うのである。さらには、人文系の学者でも、それを理解していないのではないかという人がいて、学問というのを、社会正義の実現のためにやるものだと思っているのではないかという論文が少なくない。だがそれは政治運動であって、マックス・ヴェーバーのいう「職業としての学問」からは逸脱しているのだ。
 最近は、著書を出すと、書評などが新聞雑誌に出る前から、インターネット上で感想が見られる。売れた新書などだと、あまり不断知的なものを読まない人が、勝手が違うので悪罵を放つということがある。中で時おり、他人の悪口が書いてあるのが嫌だ、というのがある。批判と悪口が区別できないのである。人気のある作家やエッセイストは、他人を批判しないのを旨としているから、そういうのを読んできた人は驚くのだろう。もっともそれが、政治家や藝能人に激しい攻撃を加える人たちと重なっているのではないか、という気もする。政治家は職業がら、そういう攻撃は受けても仕方ないのだが、こういう現象は別に目新しいものではなく、インターネットのおかげですぐ見えるようになっただけのことだ。
 だが最近気になったのは、「他の作家の悪口ばかり」と書いたものがあったことで、どうやらこの人は、ものを書く人はみな「作家」だと思っており、上野千鶴子柳田國男マックス・ヴェーバーも「他の作家」になるようである。それもいいのだが、さらにこういう人は、私が「作家」である以上、「他の作家」は「仲間」のはずで、それを批判してはいけない、と考えているように感じた。それはまずい。この感覚で言うと、自分が勤めているところを批判してはいけない、という閉鎖社会マナーになってしまう。実際、勤めた企業の内部告発をしたら、他の企業では雇わないだろうという問題がある。しかし、一般の人たちは、その人を応援しなければいけない。だがこのような「仲間を批判してはいけない」という気風があると、そうはならないのではないかと、危ない気がするのである。
 ところで最近、「冤罪」について気が付いたことがある。一般には冤罪といえば、犯罪を犯していない人が起訴された事件のことを言う。人権派の弁護士や法学者は、盛んに冤罪事件の非をあげつらおうとする。だが、松本サリン事件のように、真犯人が見つかった冤罪、あるいは落語や講談の「柳田格之進」のように盗まれたと思った金が実は盗まれていなかったと分かった場合、または八海事件など、物理的に犯行が不可能だとされた場合などを除くと、実際には証拠不十分で無罪判決が出たものも「冤罪」に含まれている。証拠不十分というのだから、実際に犯行を犯した可能性は、学問的・客観的に否定されたわけではないのだ。こう言うと、冤罪事件の被害者が実はやったと言うのか、と怒る人がいるかもしれないが、そうではなく、このような議論の枠組みは、「疑わしきは被告人の利益に」という原則を正しく理解させないことにつながるのではないか、と思うのである。
 そういえば「疑わしきは罰せず」という言葉を最近は聞かなくなった。意味を逆にとらえる人も多そうだが、これは、犯罪を立証する義務は検察側にあるのであって、被告側は、必ずしも「やっていない」ことを立証する必要はないのであり、検察側が十分な証拠をあげられなければ無罪になるのだ。ならば、冤罪事件とされているものの一部は、確実に「やったかもしれない」ものである。だが、証拠が十分でなければ、やったかもしれなくても罰してはならないというのが、刑法および刑事訴訟法の精神である。私が言いたいのは、人権派の人たちの冤罪に関する議論が、そこのところを十分に理解させる構造を持っておらず、無罪になったのだからやっていない、と思わせつつ議論を進めており、「被告人の利益」という概念を理解させそこなっているのではないかということである。
 裁判というのは、事実を追及することが目的ではない。証拠不十分となった時に、では本当は誰がやったのかということは、まったく追及の対象にはならないのである。警察の取り調べが違法だとか、検察はメンツを守るため過ちを認めないといった事実はもちろんあるが、無罪判決は決して無罪という事実を示すものではないのだ。