私小説こそゴシップではないか、丸谷才一

 本屋で『文藝別冊 丸谷才一』の、栗原さんの文章を立ち読みした。私の名前も出てくるので栗原氏の友情に涙目になりつつ(嘘)、そこで初めて、河出新装版『エホバの顔を避けて』の解説を松浦寿輝が書いていることを知った。私はこの小説は、中公文庫でだいぶ前に買ったのだが、古代イスラエルの話らしいので興味がわかず、読んでいない。松浦は、この小説を偏愛しつつ、『たった一人の反乱』『裏声で歌へ君が代』『女ざかり』『輝く日の宮』『持ち重りする薔薇の花』などのいわゆる風俗小説が好きになれないと書き、自分はゴシップに興味がないのだと書いているのを知った。
 丸谷が、ゴシップを文学の源泉として評価していることはもちろん知っていた。そして、私もそうである。だが、何よりゴシップ的なのは、丸谷が敵視していた私小説ではないか、と思い、そういえばそのことを指摘しなかったかもしれないと気付いた。『蒲団』はもとより、『オリンポスの果実』にせよ『火宅の人』にせよ『死の棘』にせよ、ゴシップではないか。なのになぜ丸谷は、私小説を攻撃したのか。もとより、丸谷が嫌ったのは、丸谷と同時に川端賞をとった上田三四二の「祝婚」のような冠婚葬祭・身辺雑記私小説なのは分かる。だがそれならなぜ、ゴシップ的私小説はいい、と言わなかったのか。
 私も丸谷の風俗小説を評価しないが、それは何よりそれらがゴシップ的ではないからである。モデルはちっとも特定できないーーいや、『女ざかり』はあるか。だがゴシップの喜びというのが、私小説のいいものから得られるようには得られないのである。だから丸谷の作品では、最もゴシップ的な、丸谷の出生の秘密に迫る『横しぐれ』が私は最高に好きで、「樹影譚」がこれに次ぐ。何をもってしてか、作りもの小説がゴシップ的であると丸谷は勘違いしたのであろう。
追記)それにしても栗原さんは丸谷の書評論を扱っているのだが、丸谷の書評論というのは謎のしろもので、盛んに、英国の書評文化はすばらしい、日本にもそれを移植せんとか言っていて、結局やったのは「毎日新聞」の仲間褒め書評だったわけだから。丸谷も川端と同じように、信頼できる批評は仲間褒めだけだとか思っていたのだろうか。それで、英国での書評を集めた丸谷編の『ロンドンで本を読む』というのをのぞいてみたら、また二流のつまらん小説の褒め書評が多い。『いいなづけ』『日の名残り』『薔薇の名前』『愛人』『たった一人の反乱』『存在の耐えられない軽さ』、サリンジャー村上春樹といった具合。
小谷野敦