池田亀鑑の犯罪?

 臼井の『15年目のエンマ帖』には、連載時にはなかった小山(おやま)敦子(1925- )の項がある。小山は戦後すぐ東大国文科に入って久松潜一の教えを受けた。1948年ころか、やはり教授の池田亀鑑の家へ行って古典籍の整理の手伝いをしていて、藍表紙本という、『徒然草』の一つを発見し、かねて、一度に書かれたとされていた『徒然草』が、あとから増補された段があるのではないかということに気づく。
 この成果は久松へのレポートに盛り込まれ、卒論にも入れ、大学院で研究発表をすることになり、当時『徒然草』の権威だった橘純一も来ることになっていた。ところが、発表の二日前に、池田の意向でこの発表はとりやめとされ、池田は「あなたのためを思って…」とくりかえすばかりで、近く刊行される池田の著書に入ることになり、研究はすべてとりあげられてしまったとある。
 池田は六年後、父親と同じ日に六十歳で死去し、小山は研究成果をその二年後に発表することができる。もっとも小学館『日本古典文学全集』の解説に、小山の論文はあげられているが、同じ号の『文学』に出た松本新八郎のほうが、本文ではとりあげられている。引用された小山の手記は、「妥協するのは嫌だった」とあるから、池田の著書に盛り込むことを、小山が拒んだのだろう。
 小山はのち、日本を去り、ハワイ大学で日本文学の教授になる。川端康成ハワイ大学へ行った時、講演の手伝いをしたのが小山である。それが、日本が嫌になったからか、あるいはもっと恐ろしいことがあったからかは、知らない。
池田亀鑑は、苦労した人、というか、若いころは池田芙蓉などの筆名で、通俗読み物などを書いていたこともある。これは長野嘗一が論文にしており、私は一度池田の伝記を調べようと思っていたのだが、未だに著作集もなければ伝記もない学者である。