何でも比較はできる。

http://d.hatena.ne.jp/genkaiblog/20130719/p1
「この論文は、ある意味で一番ショッキングかもしれない。なぜなら、円城塔石原慎太郎という、接点などほとんどないように思える作家をとりあげ「交点」をさぐるのだから。そんなものあるのか? いぶかしく思うの当然だ」
 これは、比較文学の教材に最適だと思った。かつて、『万葉集』が朝鮮語で読めるという議論があった時だったか、金田一春彦は、「manyoshu」と書けば、many odes に似ているから、『万葉集』は英語でも読めると批判したが、国内外を問わず、任意の二つの文学者ないし作品を持ってきたら、いかなる作品作家でも、比較はできるのである。
 たとえば、紫式部トーマス・マンは非常に似ている、と論じてみようか。『ブッデンブローク家の人びと』は、マンの生家をモデルに、一つの家が没落するさまを描いているが、『源氏物語』も、光源氏の栄光から、宇治十帖では世界が陰り、下の世代では悲哀感が漂う世界に変わっていて、家の没落を描いている。『ヴェニスに死す』は、柏木と比較できる。『トニオ・クレーガー』は、学問をして、父親のように世俗的に成功できず、周囲から浮いてしまった夕霧を思わせる。『ワイマルのロッテ』で、老いゲーテを訪ねるロッテのモデルは、紫上が老い光源氏(といっても40代)に感じた失望に似たものを思わせるではないか。
 樋口一葉カフカでもいい。一葉は男中心の文壇における女であり、カフカユダヤ人というヨーロッパのよそ者で、中心から遠ざけられた人間の苦悩を描いた。そして「たけくらべ」の美登利は最後に「変身」するのだが、その理由は誰にも分からない。これもカフカ的ではないか。
 曲亭馬琴とフォークナーでもいい。いずれも貧しい身分から身を起こし、『アブサロム、アブサロム!』と『南総里見八犬伝』という、その後の文学に大きな影響を与えた壮大な作品をものし、ているが、『サンクチュアリ』の暴力は、船蟲に加えられた凌辱を思わせるし、しかし当人には熱い理想主義が脈打っていた。
 といった具合で、まあこじつければ、いかなる作品や作家でも、たいていは、似ていると言えるのである。比較文学というのは、こういう無関係な作品同士の比較研究をやってきて、それはとうてい学問ではないだろうという結論に達した学問だと言っていいのだが、今でもやっている人はいる。
小谷野敦