駅前の本屋へ行ったら、文藝雑誌が出ていたが、『群像』だけなかった。『新潮』を見たら、四方田犬彦の200枚の評論「谷崎潤一郎 映画と性器表象」が載っていたので立ち読みしていて、これは買おうと思い買ってきた。
 本筋は谷崎の短篇「人面疽」が、武智鉄二の映画「花魁」に取り入れられた話らしいのだが、それだけだったら買わなかっただろう。話は冒頭、1995年に明治学院大の四方田のところへ、東陽子という学生がまぎれこむところから始まる。この人は1973年生まれで、近ごろ知られたイラストレイターらしい。その東は西谷修の学生だったが、四方田のところに出入りするようになり、そのうち、和嶋せいという老女が遠縁にあたると言う。
 和嶋せいは、『痴人の愛』のナオミのモデルで、谷崎の最初の妻・千代の実妹で、小林せい、16歳のころ谷崎と同居していて性関係をもった。谷崎はせいとの生活を『痴人の愛』に書いたので、だから「私小説」と自ら言っている。葉山三千子の名で、谷崎が始めた映画に女優として出たが、のち昭和7年に和嶋彬夫と結婚して引退した。
 そこで四方田は最晩年のせいに会うのだが、川田順造にその話をすると、馬になって載せてやったかと言われ、いいえと言うと、載せていたら谷崎から四方田までと文学史に残る、と言われたなどとある。だがせいは翌年死去し、四方田は地方紙に追悼文を書いたという。調べたら熊本日日新聞に載っていた。
 まあそれだけなんだが、四方田は三島の実弟の平岡千之も知っていたし、これの場合は偶然なんだから、事実とすれば妙な気がする。
 ところで『日本映画史100年』(集英社新書)の巻頭には、そのため「葉山三千子の思い出に」と献辞があるのだが、これを見ていたら、川端原作、成瀬監督「山の音」に「やまのね」とルビが振ってあった。「やまのおと」である。四方田というのは不思議な間違え方をする人で、『新潮』でも、小山内薫と谷崎が「『新思潮』で机を並べていた」と書いてあるのだが、机を並べていたは学校で同級であったことを意味するから変だし、『新思潮』は、まず小山内が始めて、第二次を和辻や小泉鉄、木村荘太、大貫晶川、谷崎らが始めたのだから、小山内は先輩であってまたおかしい。
 昔から四方田は日本語が不自由なところがあって、「いたいけない」などと書いていたこともある。それにまた間違いを指摘されても直さない人である。『先生とわたし』でも、大橋健三郎が東北大出身であることを知らずにいたり、間違いが指摘されているのだが、直さない。何でなんだろう。「机を並べて」も多分単行本になっても直っていないだろう。