名文だけで小説が書けるのか。

 山口翼『志賀直哉はなぜ名文か』(祥伝社新書)に目を通した。
 著者は1943年生まれなので、今年70歳になる。スタンフォードと慶大を出て、統計・計量経済学を学んだが、小説家になりたくて大学院を中退、1970年に渡仏し、語彙を増やそうと日本近代文学の名文と呼ばれるものを読んでいて、『日本語大シソーラス』を作った人である。
 冒頭から、「志賀直哉の文章が名文であることに異を唱える人は少ないだろう」とあるが、私は別に名文とは思わない。ただ、私は志賀がなんで偉いのかは分からないが、それは文章が名文でないからではなく、書いてある内容に特に感心しないからである。『暗夜行路』とか「和解」とか、どこが名作なのかさっぱり分からない。「焚火」だけはいい。「濁つた頭」も、私小説風でいい。
 だが山口はどうやら、名文を習得し書けるようになれば、小説が書けると思っているらしく、営々と「名文」を集めており、どういう内容の小説を書くつもりだったのかは分からず、結局小説は書けなかった。
 ××賞の選考委員にもその傾向があるが、世間には、文章だけで小説が成り立つと思っている人がいるようで、この人などはそういう意味で反面教師と言えるだろう。