ボナパルティズムについて。

 私の「ボナパルティズム」という語の理解が間違っているという指摘があった。ボナパルティズムは、狭い意味では、ナポレオン三世の政治であり、広い意味では強権的政治である、という。
 私の用法は、細川護熙が総理になった時、浅田彰が盛んに、「近衛の孫」で「ボナパルティズム」だと言っていたのに由来する。まさか細川政権ファシズムだとか強権的だとかいう意味ではあるまい。だいたい、発足してほどないころのことで、浅田は明らかに、かつての有名政治家の縁者、という意味で使っていた。
 まあ、浅田が間違っていたのだと言うかもしれないが、私としてはむしろ、東南アジアや東アジア、ラテンアメリカにおける、有力政治家の妻、息子、孫などが、民衆の間で輿望を担って登場するといった現象について、名称がないから、ボナパルティズムを流用してもよかろうと思う。むしろ、なぜこの現象を政治学者は名づけないのか。

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竹下節子さんの『キリスト教の真実 西洋近代をもたらした宗教思想』(ちくま新書)を読んでみたが、これはポパー主義的にはダメな本である。竹下さんには申し訳ないが、竹下さんによれば、西洋近代の根はキリスト教にあるのだが、西洋の歴史家が、キリスト教を隠蔽する形で歴史を書いたから、そのことが分からなくなっているという。
 だが、では同じことを東洋について言えないかということである。仏教には仏の前の平等思想や、衆生済度の思想、慈悲の思想があり、儒教には禅譲を美徳とし、世襲を否定する思想がある。これらもまた、近代をもたらしうるのである。もちろん、あれこれと論をたてて、なぜ東洋は近代にならなかったかを論じることは可能だが、それなら、近代科学と衝突したキリスト教が近代の根にあるというのも、疑わしくなる。
 ポパー的に言うなら、東洋では絶対に近代は生まれないという論証が必要で、それはまず不可能だろう。したがって、西洋に近代が生まれたのは偶然、ということになる。もっとも「西洋近代」とあるので、これはいくぶんトートロジーじみているのだが。