「犬笛」再見

 西村寿行原作、中島貞夫監督の映画「犬笛」は、1978年4月、高校一年生の私が、初めて一人で映画館へ観に行った記念すべき映画である。ただそれがどこの映画館だったか今思い出せないが、有楽町あたりだろう。竹下景子のファンだったから、竹下さんが半裸で雪の中に埋められているシーンのあるこの映画、観に行ったわけだ。
 だが映画の出来はまずかった。それで、以後観たことはなかったのだが、最近また観たいと思ったが、DVDもVHSもない。ようやくLDを見つけ出し、DVDに焼いて、観た。
 主演は菅原文太で、秋津という。妻は酒井和歌子、七歳の娘・良子(りょうこ)(松下実加)と、柴犬のテツがいる。娘は聴覚障害で、五万ヘルツまで音が聴こえる。ゴールトン・ホイッスルの音が聴こえるわけだ。はじめは岸田今日子のナレーションで始まる。だが良子は、ある夕方、テツとともに散歩に出て、林の中で殺人を目撃してしまい、その背後にいる大企業の悪いやつらに誘拐されてしまう。妻はそのショックで気が狂う(このへん唐突)。
 秋津は、犬笛を吹けば娘が聴いて自分も持っている犬笛を吹き、秋津が連れているテツが吠えるので分かると示唆され、警察は頼りにならないと見て、自ら娘を探しに出かける。といってもどこで探せばいいのか分からないのだから、設定にムリがある。なお原作は元の題を「娘よ、涯なき地に我を誘え」で、『別冊問題小説』1976年春号に一挙掲載、この題で徳間書店から同年刊行されたが、映画化に合わせて改題されており、私はむろん原作も読んでいた。西村は中卒後各種職業を転々とし、69年、39歳でオール読物新人賞佳作、以後も応募し続けるが、74年あたりから雑誌に小説が載り始め、76年に「君よ憤怒の河を渉れ」が映画化されて成功、流行作家となる。この映画は中共で大ヒットし、ために高倉健中野良子は同国では有名人である。西村は少年時代漢籍に親しみ、ために題名は漢文調が多く、その頃『小説新潮』に「呑舟の魚」を連載していた。また犬を連れての狩りを趣味とし、作家デビュー以前には動物ものの本を上梓している。当時「ハードロマン」と呼ばれ、セックスシーンもそれなりに売り物だった。
 さて、秋津は北海道から島根まで、むやみと雪の中、娘を探し回る。ここで柴犬のテツがいい。警察側は北大路欣也、その上司が大滝秀治で、改めて大滝がかっこいい。敵方の親玉の三枝というのを原田芳雄、部下を岸田森と、オールスターキャストで、これは三船プロ創立15周年記念作品である。竹下景子三船プロ所属。
 その竹下景子は、映画では名が出なかったが、法眼規子という精神科医である。良子は、ショックのため部分的記憶喪失になっており、実は殺された男は重要な写真のネガを持っており、犯人らはそれを探している。だが実は良子は、テツが持ってきたネガを捨ててしまい、既に燃えている。法眼規子は、病院長にしてやると言われて、良子の記憶回復のために、犯人らと行動をともにしている。
 さて、秋津は一時は、西村作品のお約束で、殺人犯扱いされ、男を脅してグライダーで逃げるのだが、この男が加藤武。三枝らは、電撃ショックを良子に与えろと法眼規子に言うのだが、そんなことをしたら死んでしまう、と拒否、しまいに法眼規子は、良子を連れて逃げようとするが捕まり、男らに輪姦される。
 ここはもちろん映画では描写されていないのだが、小説で読んだ私は「××は後ろで果てた」の「果てた」の意味が分からなかった。いや、「後ろで果てた」の意味が分からなかったのだろう。
 秋津が犯人らのアジトにたどりつくと、雪の中に埋められた下着姿の法眼規子を掘り出し、暖炉で温める。だが、竹下景子は当時24歳で、別に焦って病院長になるほどの年齢ではなく、原作では三十代の設定だったのだろう。良子は実は記憶を取り戻すのだが、ネガが焼かれたと知ったら犯人らは良子を殺してしまうので、そのことは絶対言っちゃダメよ、と法眼規子は言う。
 この「法眼規子」という名前が、またいい。いいのだが、映画を観ていてもちっとも興奮しなかった。映画の前宣伝で、ラジオドラマもやっていてそれも聴いたのだが、あれは筋を前もって教えるのだから変なものだ。さて、犯人らのホバークラフトに襲われて雪の中に倒れていた秋津を救ったのは、伴淳三郎である。ほか北村和夫も出ている。
 犯人らは、ついに良子を連れて、神戸港から東南アジアへ向けて出港する。警察では、大物に行きつくために泳がせているのだとか言っていて、こんなことになってしまう。海上保安庁の船が追跡するのだが、その船長として登場するのが三船である。文太と北大路は、沖縄まで飛び、そこからヘリコプターで巡視船まで行くが、犯人らが乗った船は、このままではインドネシアの領海に入ってしまう。三船は、上司の神山繁に電話して、駐日インドネシア大使に連絡して船を捕えてくれるよう言うのだがうまくいかず、保安庁長官の山村聡が、領海侵犯は許さん、と言うのを、三船は連絡を絶ち、領海侵犯で拿捕されても、娘を救い出す気概を示す。その間、秋津の妻が「狂い死に」したという電報が入るのだが、狂い死にって…。
 さて犯人らの船はインドネシア領海に入り、三船らは武装するのだが、インドネシア軍の船があらわれ、犯人らの船に領海外への退去を命じる。三枝は部下二人を撃ち殺し、自分も自殺する。北大路らが乗りこんで、娘を救い出す。
 人間の情愛と、アクションを盛り込み、壮大なスケールで作ろうとしたことだけはよく分かるのだが、いかんせん、ゴールトンホイッスルというアイディア倒れで、要するに娘がいそうな場所に近づかないと意味がないし、筋にムリがある。中島貞夫ともあろう人が、ムリな脚本でよく撮ったと思う。
 当時、宣伝も盛んにされていて、「西村さんの作品は、東京の原野から、サロベツ原野、鳥取、そしてインドネシアと、壮大なスケールで世界が広がっていくんですね」などと言っていたが、まことにしらじらしく、ずいぶんカネをかけて、オールスターキャストで、失敗作を作ったものである。私がプロデューサーなら、筋を聞いただけで却下する。このへんは、三船主導ゆえの失敗だったと言えようか。 
 あと主題歌が「熱愛者」といい、当時ドーナツ盤も買ったが、この歌がまた良くないのだ。歌詞もひどいし曲もひどい(小林亜星)。
 西村は、直木賞候補になること三度、数年、作家長者番付に載っていたが、ほどなく西村京太郎が擡頭して、脱落した。兄はやはり作家の西村望。寿行は熱があっても骨折していても執筆をやめず、セックスシーンでは自ら激しく興奮し、「自分が興奮しないものが読者を興奮させられるはずがない」と言い、自身も週に五、六回やっていたというが、相手は誰であったやら。
 なおジャケット、ポスターなどでは、竹下景子を雪の中から抱き上げる文太の写真が使われていたのだが、映画にこのシーンはない。掘っていて竹下さんの顔が出てきて、カットである。これは一応発砲スチロールで箱を作って埋めたのだが実際の雪も使っていたから撮影は大変だったそうである。
 この映画で一番の名演は、柴犬のテツである、ということが分かった。
小谷野敦