大岡昇平の自伝

 たぶん1990年2月の海部内閣での総選挙の前だったと思うが、「朝まで生テレビ」で、フロアからの意見を募った際、立った男が、今の政治家がいかに不真面目であるか、と述べてから、「その点、今度岐阜一区から出馬する野田聖子は…」と選挙運動を始めたので、田原総一朗がすぐさえぎって、「そういうのはね、全然まじめじゃないんだ」と言ったことがあった。

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枡野浩一さんが函館で石川啄木について講演した際、老人男性から糾弾された時のことが、ハルキ文庫『悲しき玩具』の解説に書いてあると言うので見てきた。啄木の写真についた落書きみたいな絵が許せないということだった。それより私はその後に書いてある、谷村新司の『昴』が啄木の歌からとったもので、啄木は『スバル』の編集人だったから、というのが初めて知ったことだった。
 実は私は谷村の「昴」という曲を知らなかった。知ったのは、90年秋のカナダ留学中、日本から送られてきたカセットテープに録音されていた春風亭柳昇師匠の「カラオケ病院」で、その替え歌を聴いた時のことである。それ以後も、まともに聴いたことがずっとなかったから、私の中では未だにこの歌は「水虫がかゆくなり、我慢できぬかゆさに」となっている。替え歌を聴いて、「ああ聴いたことがある」とさえ思わなかった。なんでであろう。

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大岡昇平の『幼年』『少年』を読んだ。自伝的作品だが、後者は小説ともされている。が、事実そのままである。私が高校生の頃、古文の先生は、60歳くらいで、ひょうきんな、割と人気のある先生だったが、自習の時間だったか、教卓でこの『少年』を読んでいた。出てから四年くらいはたっていたはずだ。私はその時最前列で、高校時代の親友のOが隣の席だった。Oは背が低いのと顔だちとで「少年」というあだ名だったから、それを示して、笑った。
 大岡は、青山学院中等部へ行っていて、ずいぶんキリスト教に影響を受けていたことが分かり、それで「野火」がなんであんな作品なのかも分かった。漱石の『こゝろ』は、戦後になってはやりだし、谷崎と武田泰淳が、つまらんものだと言っているが、少年大岡はかなり感動して、『こゝろ』のことばかり書いているが、それもキリスト教のためで、『こゝろ』はキリスト教用小説だということが証明されている。
 私が阪大へ行ったころ、『こゝろ』の同性愛的側面について新人教員として発表したら、あとで食ってかかってきた、定年一年前の教授がいたが、この人も、やはりキリスト教的な側面から『こゝろ』を神聖視していた人だったのだろう。英文学者だが、橋本治とか小森陽一とかは全然読んでいないで食ってかかるのだから困ったもので、しばしば英文学者などには、日本文学なら研究を読まずにものを言っていいと思っている人がいる。
 さて大岡は、母が芸妓だったことを知ってショックを受けている。のち、銀座のバーの坂本睦子を愛人にして、睦子が自殺したあと『花影』を書くのだが、そのことと、母のこととがどう結び付くのかは、一言も触れられてはいなかった。同級生にも、広田弘毅の息子がいたり、多士済済で、私が自伝を書いてもこうはならないな、東京育ちはいいな、と思った。
 府立一中の受験の前の夜、大岡は道玄坂(?)の書店を気晴らしに見ていて、雑誌に連載されていた「人肉の市」というののエロティックな挿絵を見て興奮したといい、その後の射精やオナニーの罪悪感が、キリスト教へ近づけたと書いているが、この「人肉の市」のその挿絵が、近代デジタルライブラリーですぐ見つかったのが面白かった。大岡が描写している通りなのである。