悲しき文学研究者

 筒井康隆の『文学部唯野教授』に、文藝評論家でもある英文学者が本を出したという話をしていて、聞いていた、著書もないような老教授が、「それは、いくらくらい出したのですか」と訊いて、唯野らが、この人は本を出すのに自分がカネを出すと思っているのだ、と思って愕然とする場面があるが、これは今読むと何とも言えない気分になる個所である。
 当時はバブル経済期でもあったからこうなるのだが、今では、文藝評論でさえ、おいそれとは出ない。いわんや、文学研究者の研究書などというのは、自費出版でなければ、研究助成金をとって出し、三百部から五百部、うち五十部以上は本人買い上げで、もちろん印税なんかなし、というのが普通である。まあ昔だってそうだったかしれないが、文学研究書の売れなさはすさまじいものがある。外国文学の本を多数出している水声社(旧・書肆風の薔薇)は、印税なしである。
 阪大にいたころだが、さる英文学者が、知人の作家がいるから、紹介してもらって、カッパブックスからシェイクスピアの『ソネット集』についての本を出したいと語っていて、唖然としたことがある。そんなもの出るわけないではないか。集英社新書から、南条竹則の『ダウスン』が出たのも、どういう出版事故かと思ったくらいだ。ただおそらくはこれが出たのを見て、自分の研究書も新書で出るのでは、と哀しい期待をした英文学者がいたかもしれない。いや、いただろう。
 「アナホリッシュ国文学」はどうなったのか知らないが、文学研究が徳川幕府なら、今は慶応三年くらいになっている。