ノートをとる

 よく大学生が、試験の前に「友達からノートを借りて」といったことを言うが、私にはこの「ノート」がよく分からない。借りたこともなければ、とったこともない。いや、授業中に一応ノートは広げていたのだが、まともにとれたことがない。
 なんでかというに、大学の教師がしゃべることは、本に書いてあるからである。教養学部時代にとった授業と言えば、村上陽一郎、折原浩などがいるが、これは著書があって、そこに書いてあることをしゃべっている。井上忠は、著書を読んでも何が書いてあるのか分からない(今でも分からない)が、しゃべっていることも、何を言っているのか分からなかったから、ノートがとれるはずもない。延広眞治先生だけは、『柳多留』の講義だから、これだけはいくらかメモはとった。村上陽一郎は、いくらかノートはとったのだが、あとで見たら、著書に書いてあることだった。
 英文科へ行くと、渡辺利雄のアメリカ文学史、これは『総説アメリカ文学史』を読めば、あまりうまいとはいえない講義より分かる。ほか英文科は原典講読があるが、これはもうノートというのとは違うし、翻訳があったりする。
 大学でノートをとるというのは、明治期、まだろくに入門書とか概説書がない時代の遺物である。だから、現代において、本気で「ノートをとる」などと言っている大学生は、バカか、教科書や概説書が買えないか、ないしは教授が、まだどこにも発表されていない新説を講義しているか、のどれかである。