ソロモン・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』という本がある。中公文庫にかつて入っていて、私はこれで読んだがなかなか面白かった。
 ところが、これが「偽書」だという。ヴォルコフがショスタコーヴィチに話を聞いて書いたというが、ヴォルコフは数回、短時間しかショスタコーヴィチに会っておらず、とてもこの分量は書けないというのだ。
 さらに、ローレル・ファーイの研究によると、この本の中には、ショスタコーヴィチが自分で書いた文章も混じっているという。で、信用ならない本だというのだが、私はいつもここで引っかかる。ショスタコーヴィチが書いた文章が入っているなら、ヴォルコフが嘘をついた、ということは言えても、信用ならないということにはならないのではないか。
 逆にいえば、まあ偉大な、ないしは舟橋聖一程度に名前の知れた人について、当人が死んだあとで誰かが何かを書いて、私だけが知っている、と言ったら、仮に未亡人がいたとしても、違うという根拠はないのである。
 これは中川右介さんの『未完成』を読んだら出てきたのだが、これについてはヴォルコフの本を読んだときも、中川さんと話している。つまり、ここは信用できない、という風に個別具体的に指摘するならいいのだが、ヴォルコフの本は無価値である、という風に言うと、どうもおかしなことになって、たらいの水と一緒に赤ん坊を流すことになるのではないか。
 私自身は、読んでいて、信用できないという感じを持たなかった。まあ、それ以外のショスタコーヴィチについての文献を知らないからかもしれないが、どうもヴォルコフの本については、信用できないという大雑把な言説だけが独り歩きしている気がしてならないのである。 

                                                                  • -

アーサー・ケストラーは、「作家」と言われているが、「ノンフィクション作家」ではないかと思う。そのケストラーは、「禅」批判をして鈴木大拙と論争になったことがある。1960年に『蓮とロボット』というフランス語の本を出して、蓮はインド、ロボットが日本らしいのだが、邦訳はない。同時に『エンカウンター』に「鼻持ちならぬ禅 禅は封建日本のトランキライザーに過ぎない」という一文を書いた。
 この論争については、山田奨治『禅という名の日本丸』(弘文堂)が触れている。それによると、大拙はケストラーを攻撃して、日本へ来てペンクラブとトラブルを起こした、などと書いているのだが、これはパステルナーク問題で、ペンクラブの姿勢がソ連に対して生ぬるいというので、サイデンステッカー、アイヴァン・モリスらが抗議声明を出し、ケストラーが日本ペンクラブの招待講演を辞退したという事件である。しかし大拙は、そういう背景には全然関知しないようだ。
 なぜか、論争より二年あとになって、『論争』という雑誌に、竹本忠雄がケストラーの論文を訳し、あわせてクリスマス・ハンフレイズという英国仏教協会長の反論も載せ、竹本自身も反論している。
 まあ私はまったくケストラーに賛成するのだが、その後、禅はポストモダンになった。「禅問答」はそのまま、ポストモダンのインチキ哲学に化けたわけで、ところがケストラーのほうはそれから自分がオカルトになって、『ホロン革命』(原題はジェイナス=ヤヌス)なんて本を書いて、日本でもちょっとブームになった。今ではポストモダンのインチキぶりも明らかになったのだから、やっぱり禅もインチキだったということになりそうなものだ。
 あとおかしいのは、当時は美術評論家アンドレ・マルローの紹介者だった竹本忠雄が、今ではオカルト右翼になってしまったことである。