三木竹二の妻

http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20070308
 ここに出てくる近松秋江の「再婚」(大正四年)が、中央公論社の『日本の文学 田山花袋近松秋江・岩野泡鳴」に入っているのだが、実は鴎外の「本家分家」が、秋江の「再婚」への反駁として書かれたということを明らかにしたのは、1969年5月の『鴎外』に載った成瀬正勝(雅川滉)の「鴎外を怒らせた近松秋江の作品」なのである。『日本の文学』は1970年5月の刊行だが、解説で平野謙がその件に触れている。成瀬は同年2月に新聞にこのことを書いていた。
 さて問題の白井真如、ないし森久子は、旧姓長谷で、恐らく1879年生まれ、三木竹二の12歳年下で、明治27年(1894)、竹二が29歳の時結婚した、と『近代文学研究叢書』にあるのだが、明治27年では竹二は数えでも28にしかならない。とすると久子は数え16ということになる。若すぎるから、29歳というのが本当で明治28年の間違いであろうか。『歌舞伎新報』主筆岡野磧の媒酌で、伊予松山の藩医・長谷文の長女とある。明治34年から、『歌舞伎』に白井真如ないし真如女史の名で劇評を書き始めたというが、この人に関する論文は今のところまったく見出すことが出来ない。白井というのも旧姓というわけではない。しかし満22歳で書き始めたことになって早熟である。
 竹二が死んだ明治41年には従ってまだ満29歳である。はじめ三男の潤三郎に再嫁せしめようとしたが断ったので妻を亡くした幸田露伴にあっせんしたが断られ、露伴はひどく怒っていたというが、そんなに怒ることか。かくして建部とん吾に嫁したがすぐに出されたという。1950年12月に、水戸で71歳で死んだと『叢書』にあるから、それからどこかへ嫁したのだろう。女性の文筆家が好きな女性文学研究者が全然調べないのが不思議である。
 さて、問題の「再婚」に描かれた密通だが、秋江によると、見合いで知り合って密通するようになり、44年、建部と結婚するので別れたとあり、年下の弁護士だとある。成瀬は、なぜ鴎外がこれに触れなかったかについて、事実だったからだろうと匂わせている。しかし山崎国紀『評伝森鴎外』は、この件にはまったく触れていない。『両像・森鴎外』で松本清張も、この件には触れつつ、清張らしくもなく、密通について推理しようとしていない。森まゆみの『鴎外の坂』には、明治42年、久子が英語の教師山本英造とランデブーしたと鴎外の日記にある、とある。もっともこれが「三輪」であるかどうかは、分からない。  
 そもそも、見合いで知り合って意気投合したなら結婚すればいいので、これは秋江の潤色で、男は妻持ちであろう。それで弁護士ときたら、誰しもある名前を思い浮かべる。平出修である。平出は1878年生まれだから年下ではないが、篤二郎からしたらずっと下である。また「再婚」で愛人の三輪は、法学士で弁護士の自分より文学博士の建部がいいのだろうと女を詰っている。平出は明治法律学校卒だから、果たして法学士だったかどうか分からないが、帝大卒でないひけ目はあったろう。平出は平出家へ婿に入っており、明治44年には男児二人がいた。鴎外とは観潮楼歌会や『すばる』で接触があり、43年の大逆事件では鴎外から社会主義について講義を受けている。
 だが大正三年に若くして死去、とすると、秋江が大正四年に「再婚」を書いたのは、平出が死んだからとも考えられる。
小谷野敦)