ディレンマ

 こういうディレンマがある。ハードカヴァーの論文集に入れた、詳しく書いた論文(評論)があって、同じ内容を簡単に新書判に書く、ないしはネット上に書く。すると、後者だけ読んであれこれ言うやつがいる。
 では最初の論文をPDFにでもしてあげるか、と思うが、まだ本として刊行されている以上、それは出版社の迷惑になるから出来ない。 
 ただまあ、後者を読んで文句を言うやつは、元のものを読んでもやはり同じだろう。

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なんだか日垣隆を攻撃している匿名の卑怯者らがいて、私にまで突っかかってくる。匿名の奴は相手にしないことにしているのだが、うるさいから略説しておく。
 『刑法39条は廃止せよ! 是か非か』(洋泉社、新書y)に私は寄稿しているのだが、そこで日垣の『そして殺人者は野に放たれる』を褒めているのがいかんらしい。なんでいかんのか読んでも分からんから、気違いだろうと思う。気違いにとっては、刑法39条廃止というのは嫌な話であろう。
 ただ私は、刑法39条についてさほど関心がない。むしろ、死刑廃止論の偽善のほうが油断ならないと思っている。それは『なぜ悪人を殺してはいけないのか』(新曜社)に書いたのだが、これがまた売れていない。
 さて匿名卑怯者は、刑法39条を廃止するなら「責任主義」を抛棄しなければならない、と言う。そうかねえ。実は小説家T氏が、匿名掲示板で自分について「レイプ魔」などと書いた者に対して民事訴訟で闘っているのを知って、なんで刑事にしなかったのかと思ったのだが、これ、刑事にすると39条で免訴されてしまうからなんだよね。
 さて、殺人などの凶悪犯罪の場合、私は、素質が大きいと思っていて、最近の遺伝行動学では、だいたいそんな方向へ行っていると思う。むろん、素質百パーセントとは言わない。すると、「責任主義」を厳格に適用するなら、凶悪犯罪はおおむね生まれ持った素質によるものだから、当人に責任なし、となりかねないのだ。戦後の刑法学は、この問題を避けて通ってきたわけ。
 39条の前に、ろうあ者に関する38条があったことはよく知られている。これはいま削除されている。そして最後の牙城が「kちがい」だったわけだ。つまり「責任主義」といっても、素質は問わない、kちがいは問う、という構成に現在はなっていて、これに手をつけると、予防拘禁とか優生学になりかねないから、人は言わないわけ。
 つまり「責任主義」などというのは、とても貫徹されているとは言えないのだよ。生理前になると万引きをする女というのがあるが、これもその一種で、しかし刑法に「生理前の万引きなどの微罪は、これを問わない」とは書いていない。